「謎の美女記憶喪失事件」とは

テレビアニメ『名探偵コナン』第24話「謎の美女記憶喪失事件」は、1996年7月15日に読売テレビ・日本テレビ系で放送されたアニメオリジナルエピソードである。原作漫画に対応する話を持たないアニメ独自の事件としては第6弾にあたり、脚本は宮下隼一が担当した。二か月前に逮捕された保険金殺人犯の脱獄と、名前以外の記憶を失った美女との出会いという、一見無関係な二つの出来事が、一つの事件へ収斂していく一話完結の構成になっている。

脱獄した保険金殺人犯・湯田等

二か月前、保険金殺人犯の湯田等(ゆだ・ひとし、34歳)が逮捕された。妻の恵子を保険金目的で殺害した事件で、推理を披露したのは「眠りの小五郎」——コナンが蝶ネクタイ型変声機で毛利小五郎の声を使って解決した事件だった。そうとは知らない湯田は小五郎を恨み、逮捕の際に「この礼は必ずしてやる」と言い残していた。 1996年7月14日の夜、湯田は布きれをつないだ縄を使って武蔵野刑務所から脱獄した。翌朝、新聞で脱走を知った毛利蘭は、湯田の言葉を思い出して父の身を案じ、小五郎の「ボディーガード」役を買って出た。当の小五郎は、脱獄犯が捕まる危険を冒してまで東京に残るはずがないと楽観し、競馬場へ向かう。心配する蘭とコナンも同行した。

脱獄した保険金殺人犯・湯田等
湯田等——二か月前に逮捕され復讐を誓って脱獄した保険金殺人犯

競馬場の帰り道、歩道橋から落ちてきた美女

競馬場の観客席では、サングラス姿の怪しい男がいることにコナンが気づく。馬券も振るわず場内をあとにした一行の帰り道、歩道橋の上からふらふらと降りてきた女性が、そのまま小五郎たちへ倒れかかってきた。 鍛え上げられた身体を持つその美女は、米花町の横山総合病院へ運ばれた。大きな外傷はなかった。ところが目覚めた女性は、「真夜(まや)」という名前以外のことを何も覚えていないという。自分が誰で、どこへ行こうとしていたのかも分からない。医師の診断では、いわゆる逆行性の健忘——事故前の出来事が思い出せない一方で、新しい記憶は作れる状態だった。記憶を失う前に何があったのかを知る手がかりを求めて、小五郎たちは彼女の身元探しを手伝うことになった。

記憶を失った美女・橘真夜
橘真夜——歩道橋で小五郎たちに倒れかかった記憶喪失の美女

十五軒のホテルと聖書のメモ

真夜の所持品の中に一冊の聖書があった。キリスト教圏のホテルでは客室に聖書が備え付けられていることが多い。コナンは聖書に残されたメモ書きの圧痕を鉛筆で擦り出して浮かび上がらせ、真夜がどこかのホテルに滞在していた可能性を見出す。 そこから小五郎たちはタクシーを使い、米花町の三ツ星以上のホテルを一軒ずつ回った。聞き込みは十五軒に及んだ。ようやく手がかりが出たのは十二軒目の米花グランドホテルで、ドアマンが真夜の顔と名前を覚えていた。ようやくフルネームが橘真夜(たちばな・まや)だと判明する。荷物を確認する場面では、女性ものの着替えが出てきて慌てるコナンの姿も描かれ、緊張の続く導入部の息抜きになっている。

二度の襲撃とバスの行き先

身元が分かった直後、ホテルの正面で赤い乗用車が小五郎と真夜めがけて突っ込んできた。運転していたのは競馬場にいたサングラスの男だった。コナンは車を追う。しかし路地へ入り、木塀を突き破った先で見失った。この車は後に、1992年式の赤い三菱ギャランVR4と判明する。 追跡の途中、コナンはバスと大型トラックの衝突事故の跡に気づく。現場は米花町五丁目の理髪店「レ・アル」の前。事故が起きたのは日没の三時間ほど前だった。真夜はそのバスに乗っていて、衝撃で前の座席の背もたれに頭をぶつけ、記憶を失ったのではないか——コナンはそう推測した。 真夜がバスで向かおうとしていたのは米花町五丁目のガスタンク方面だった。一行は同じ路線のバスに乗り、彼女の足取りをなぞる。途中、廃ビルの傍らを通りかかった時、今度は屋上からコンクリートブロックが落とされた。二度目の襲撃である。その廃ビルで真夜は襲撃者の姿を目にし、失っていた記憶を取り戻した。ここから物語は、脱獄犯の復讐と記憶喪失の美女という二つの筋が一つに重なる、急転の局面へ入っていく。

廃ビルの崩落物をよける小五郎・蘭・コナンと真夜
廃ビルでの二度目の襲撃——瓦礫をよける一行(第24話の場面写)

この事件に関わる人々

この一話に関わる顔ぶれを整理する。標的となる毛利小五郎は、湯田の復讐予告を知りながらも脅威を甘く見て競馬場へ出かける。娘の蘭は父の身を案じてボディーガード役を買って出て、コナンも同行する。湯田等は二か月前に妻の恵子を保険金目的で殺害したとして逮捕され、武蔵野刑務所から脱獄した保険金殺人犯である。橘真夜は歩道橋で小五郎たちに倒れかかった記憶喪失の美女で、米花グランドホテルに滞在していた。横山総合病院の医師は真夜の症状を逆行性の健忘と診断し、目暮警部は二か月前の事件を振り返る回想に登場する。

放送記録とスタッフ

本話はシーズン1の第24話として1996年7月15日(月)に放送され、世帯視聴率は14.4%を記録した。英語版では「Better Off Forgotten」という題で2004年7月5日に放送され、国際版では第25話として数えられる。 脚本は宮下隼一、絵コンテと演出は松浦錠平、作画監督は青野厚司が務めた。監督はこだま兼嗣、キャラクターデザインは須藤昌朋という、初期のシリーズを支えた布陣である。ほかにプロップデザインの森木靖泰、美術設定の光元博行らがクレジットされている。ゲストキャストは、真夜役に松岡洋子、湯田役に幹本雄之、医師役に小島敏彦、警官役に高木渉、ドアマン役に鈴木勝美が名を連ねる。目暮警部は二か月前の事件を振り返る回想に登場する。オープニングは↑THE HIGH-LOWS↓の「胸がドキドキ」、エンディングはZIGGYの「STEP BY STEP」で、コナンズヒントに示されたキーアイテムはペンダントだった。

放送日付と宗教的な名づけ

劇中には細かい仕掛けも多い。蘭が脱獄を知る新聞の日付は1996年7月15日——本話の放送日そのものが作中の日付になっている。オープニングのモノローグも本話用に変えられ、「今日の事件は記憶喪失、美人の陰に罠がある。大人の男は騙せても、真実はいつも1つ!」と内容を予告する語りが添えられた。 登場人物や舞台の名づけにも宗教色が読み取れる。米花町9-13にある店「ラストサパー」には『最後の晩餐』を模した絵が飾られ、英語版Wikiは、湯田がキリストを裏切った「ユダ」に、真夜が「幻」を意味するマーヤーに通じる名だと指摘する。暗号めいたメモが挟まれた聖書とあわせ、事件全体を貫くモチーフになっている。

この回の位置づけ

第24話は、毛利小五郎が正面から命を狙われる珍しい回である。湯田の言葉を知りながら、脱獄犯がわざわざ東京に残るはずがないと脅威を甘く見る小五郎は、競馬場へ向かい、出会ったばかりの美女に気を許す。娘の蘭がボディーガードを買って出るほどの警戒をよそに、本人は呑気なままだ。その呑気さと、少しずつ正体を現していく脅威。この落差が、事件全体の緊張感を支えている。 また本作は謎解きよりも暗殺サスペンスに近い作りで、狙う側と狙われる側の距離が画面の中でじわじわ縮まる。使われるアイテムは、回想に出る蝶ネクタイ型変声機と、終盤のキック力増強シューズの二点だけという質素さで、小道具より状況の怖さを見せる回でもある。後のアニメオリジナル回「恐怖のトラバース殺人事件」では、作中に登場するミステリー作家が書いたという小説の筋書きとして、本話の事件がそのまま引用されている。一話完結ながら、のちの作品内でも言及される出来の回である。

コナンの背後に立つサングラスの男と、ペンダントを着けた真夜
コナン、変装した男、そして真夜——三者が一つの構図に収まる場面(第24話)
犯人・トリック・動機などのネタバレを表示

怪しい男の正体と真夜の素性

サングラスの怪しい男の正体は、変装した湯田等だった。脱獄後も東京に残り、真っ先に小五郎への復讐へ動き、殺し屋を雇ったうえで自分でも襲撃を繰り返していた。競馬場での目撃、ホテル前での車による襲撃、廃ビルからのコンクリートブロックはすべて湯田本人の手によるものである。 そして真夜の正体は、その湯田が小五郎殺害のために雇った殺し屋だった。記憶喪失は演技ではない。バスの追突事故による本物の逆行性健忘である。事故に遭った時、彼女は米花町五丁目のガスタンク方面へ向かう途中だった——すなわち記憶を失う前から、すでに殺しの依頼を受けて動いていた。ただし廃ビルで湯田を目にした時点で記憶は戻っており、以後の記憶喪失は、依頼を遂行するための偽装だった。 コナンは早い段階から真夜の異変に気づいていた。鍛え上げられた体、人差し指の付け根に残る傷——金属線を日頃から扱う者に見られる痕、とっさの動作の鋭さ、そして所持品に紛れていた細いワイヤー。身元探しを手伝う傍らで、コナンはこの美女が単なる被害者ではない可能性をにらみ続けていた。

ペンダントのワイヤーと廃工場の対決

記憶を取り戻した真夜は、それを隠して「ラストサパー」で依頼人の湯田と接触し、取引を詰めたうえで湯田本人をも気絶させた。そして喪失を装い続け、小五郎を米花町の廃工場へ誘い込んだ。一人きりになったところでワイヤーを小五郎の首へかけ、そのまま梁へ吊り上げた。ペンダントに仕込まれていた絞殺具による、即席の絞首台だ。 しかしコナンはすでに警察へ通報を済ませていた。「江戸川コナン、探偵さ!」間一髪のところで、キック力増強シューズの力で野球ボールを真夜へ蹴り込み、小五郎を解放させる。駆けつけた警察の手で、殺し屋・橘真夜と依頼人・湯田等の二人はその場で逮捕された。依頼主すら手にかけた殺し屋だったが、最後まで不敵な態度は崩さなかった。自分の敗因が「コナンという存在を見誤ったこと」だと認め、真夜は連行された。

記憶喪失という二重の構造

この事件が単なる刺客ものに終わらないのは、真夜の記憶喪失が「本物」と「偽装」に分かれる構成にある。事故で失った記憶は本物であり、小五郎たちが奔走した身元探しは彼女にとっても必要な手続きだった。ところが記憶が戻った瞬間から、同行者は探偵の依頼人ではなく標的へ変わる。助けられた側が殺す側だったという反転を、「記憶が戻った」という一点を境に描き切った。それが、この回が後の作中でも引用されるだけの芯を与えている。 そして小五郎は、刺客の正体に気づかないまま罠の中心へ足を踏み入れた。蘭の警戒、コナンの観察、真夜の偽装。三者が同じ場面で重なり合う構造は、後味の悪さより、どこか滑稽さの残る小五郎らしい受難として機能している。

出典