『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の結末では、暁美ほむらが円環の理による救済を受け入れず、鹿目まどかの人間としての記録を引き離し、宇宙を再び作り替える。行動だけを見れば「救われる直前の裏切り」だが、そこへ至るまでに、インキュベーターの隔離実験、ほむら自身の魔女化、まどかの本心をめぐる会話が重なる。終盤を順に確認し、作中で確定する事実と解釈を分ける。
前提:円環の理成立後の世界
TVシリーズ最終話で、まどかは過去と未来のすべての魔女を生まれる前に消すことを願った。人間として世界に留まれず、魔法少女が絶望の限界へ達したときに救済する宇宙法則、円環の理となる。ほむらだけが改変前のまどかを覚えている。
改変後には魔女ではなく魔獣が現れ、魔法少女は戦いを続ける。ほむらはキュゥべえへ、以前の世界ではソウルジェムがグリーフシードへ変わり、魔女が生まれたと語る。キュゥべえは証明できない話として聞きながら、現在より効率的な回収方法へ関心を持つ。

この情報が、円環の理を観測し制御する実験につながる。『叛逆の物語』の事件は、まどかの願いが不完全だったから自然発生したのではなく、インキュベーターが外部から救済過程へ干渉したことで起こる。
見滝原の日常はほむらの結界だった
映画序盤では、まどか、ほむら、巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子が同じ学校生活を送り、百江なぎさを思わせるベベもいる。全員でナイトメアを浄化し、TVシリーズの悲劇が解消されたように見える。しかし街の外へ出られず、記憶と人間関係に継ぎ目がある。
ほむらはマミやさやかとの対話から異常を調べ、魔女の結界に閉じ込められていると判断する。やがて、結界の主が自分自身であり、場所は魔女化直前のソウルジェム内部だと知る。望んだ日常を無意識に作り、外部の人物を取り込んでいた。
ここで重要なのは、ほむらの身体が現実の街で普通に魔女化したわけではないことだ。ソウルジェムはインキュベーターの装置で外界から隔離され、通常なら来るはずの円環の理が直接干渉できない実験環境に置かれていた。

インキュベーターの観測実験
キュゥべえたちは、ほむらが限界へ達したとき、円環の理がどのように現れるかを観測しようとした。まどかを法則として認識できれば、やがて干渉し、制御して、魔女化による高効率なエネルギー回収を復活させられると考える。
円環の理側も監視を予測し、まどかの記憶と力をさやか、なぎさへ預けて結界へ入る。まどか本人は普通の少女として振る舞い、インキュベーターに正体を観測させない。さやかとなぎさは、すでに円環の理に導かれた魔法少女として状況を理解している。
序盤の幸福な世界は、ほむらだけの欺瞞でも、まどかだけの贈り物でもない。隔離装置、ほむらの願望、円環の理側の潜入が重なった結果である。複数の目的が同じ結界を利用している。

花畑での会話がほむらへ与えたもの
記憶を失ったまどかは花畑で、家族や友人と別れ、遠くへ行くことを耐えられないとほむらへ話す。TV最終話のまどかは宇宙規模の願いを選んだが、ここにいる人間のまどかは、自分ならそんな決断はできないと感じている。
この会話を「最終話の願いは本心ではなかった」という単純な訂正にすることはできない。花畑のまどかは、契約の全記憶と円環の理としての視点を失っている。最終話のまどかは、ほむらの反復と全魔法少女の苦しみを知り、代価を理解した上で願った。
それでもほむらにとって、目の前の言葉は決定的だった。まどかは一人で永遠の役割を望んだのではなく、選ばざるを得なかったのではないか。ならば救済を受け入れるだけでなく、まどかを人間へ戻すことが自分の役割だと考える余地が生まれる。
ほむらが救済を拒むまで
真相を知ったほむらは、円環の理が自分を迎えればインキュベーターに観測されると判断する。そこで結界内で完全な魔女となり、仲間に倒されることで、まどかへ到達させない道を選ぼうとする。自分を犠牲にして円環の理を守る計画である。

仲間たちはこの計画を受け入れず、結界と外部装置を破壊する。オクタヴィアやシャルロッテの力、魔法少女たちの連携が、インキュベーターの封印を突破する。ほむらは救われる条件へ戻され、円環の理としてのまどかが現れる。
ここまでは、仲間がほむらの自己犠牲を止める救済の結末に見える。だが、ほむらはまどかの手を取る瞬間に別の選択を実行する。救済される側のまま終わらず、救済者の構造へ介入する。
まどかを「引き裂く」とは何をしたのか
ほむらは円環の理から、鹿目まどかという人間の記録を引き離す。円環の理を完全に消滅させたと断定するより、宇宙法則としての力と、家族や友人を持つ少女の側面を分け、新しい世界に置いたと見るのが作中の台詞に近い。

改変後のまどかは、海外から見滝原へ来た転校生として家族と暮らす。ほむらは学校を案内し、以前とは逆の立場で接する。まどかは一時的に自分が世界の法則である感覚を取り戻しかけるが、ほむらが抱き止めて現在の役割へ戻す。
したがって、まどかの意思を尊重して完全に自由にしたわけではない。人間としての日常を与える一方、円環の理へ戻ろうとする動きをほむらが制止し、記憶と世界を管理する。救出と拘束が同じ行為に含まれる。
なぜほむらは「悪魔」を名乗るのか
まどかが神にも等しい法則なら、その摂理へ逆らい、力の一部を奪った自分は悪魔だとほむらは位置付ける。これは一般的な宗教上の悪魔という設定説明より、まどかの救済へ反逆した関係を示す自己命名である。

ほむらのソウルジェムは通常のグリーフシードとは異なる形へ変わり、その感情を愛と呼ぶ。希望と絶望の分類を越えた力として、宇宙を再改変する。愛が無条件に善い力として描かれるのではなく、相手の選択を覆すほどの執着も含む。
悪魔を名乗ることで、ほむらは自分の行動がまどかの願いに反することを理解していると示す。誤って善い救済をしたと思っているのではない。反逆の罪と役割を引き受けても、まどかを人間に戻す方を選んだ。
世界改変後の人物配置
まどかは家族と再会し、学校へ転入する。さやかは世界の異常を理解してほむらへ反発するが、記憶を失い始める。杏子、マミ、なぎさも新しい日常へ配置される。キュゥべえは、世界に残る呪いを処理する役割を負わされる。
表面だけ見れば、死や別離のない生活が戻ったように見える。しかし人物の記憶はほむらが作った秩序に沿っており、完全な自己決定ではない。まどかの本質が目覚める可能性、さやかの抵抗、キュゥべえの状態が不安定さを示す。

ほむら自身も幸福を手にしていない。まどかと親しく振る舞うより距離を取り、崖際で踊り、月が割れる映像とともに孤独を選ぶ。目的を達成した勝者の安定ではなく、世界を維持する監視者になった。
ほむらの行動は正しいのか
作品は一つの判決を提示しない。肯定側から見れば、まどかはすべての魔法少女を救うため人間性を失い、家族から忘れられた。ほむらは唯一その代価を記憶し、本人が口にした寂しさを救おうとした。
批判側から見れば、まどかは情報を得た上で自ら願いを選んだ。ほむらはその意思を受け入れず、人間のまどかだけを抽出し、記憶を制限して世界へ置いた。相手のためという理由で、相手の選択を代わりに決めている。

両方が同時に成り立つことが結末の緊張である。愛は救済の動機であり、支配の動機にもなる。まどかの自己犠牲も、ほむらの反逆も、一方だけを無垢な正解にしない。
TV最終話を否定する結末なのか
『叛逆の物語』は、TV最終話を無意味に取り消すのではない。円環の理が存在したから、さやかとなぎさはほむらを救うため結界へ入り、インキュベーターの実験を破れる。まどかの願いは映画の救出作戦を成立させる力である。
一方、TV最終話が完全な終点ではなかったことも示す。個人のまどかが払った孤独、残されたほむらの感情、インキュベーターによる利用の可能性が残っていた。映画は、その未解決部分から次の問いを作る。
希望を守るために自分を消したまどかと、まどかを戻すために希望の法則へ反逆したほむら。二つの結末は単純な上書きではなく、互いの救済が相手の意思をどこまで含められるかを争っている。

『ワルプルギスの廻天』へ残る論点
続編へ残る最大の問題は、円環の理と人間のまどかがどの状態にあるかである。まどかは本質を思い出しかけ、ほむらの世界は完全に固定されていない。円環の理を求める側が動けば、二つの役割は再び衝突する。
ほむらが作った秩序も、本人の力だけで永続する保証はない。キュゥべえへ呪いを負わせた結果、インキュベーターがどう変化するか、さやかたちが記憶を取り戻すか、ワルプルギスの夜が新世界で何を意味するかが焦点になる。
公開前の予告から結末を確定することはできない。『叛逆の物語』で確定したのは、ほむらが救済を拒み、まどかの人間性を分離し、世界を改変したところまで。その先は最新作の描写で更新する。
