『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は、2007年公開の映画で、J・K・ローリングの小説を原作とするシリーズ第5作である。闇の帝王ヴォルデモートの復活を魔法省が否定し、学校ホグワーツが国家の統制下に置かれていく一年を描く。新任教師アンブリッジの圧政のもと、ハリーは仲間とともに秘密の防衛術サークル「ダンブルドア軍団」を結成し、やがて神秘部での予言を巡る戦いへと導かれる。シリーズで最も政治的な色彩を帯びた転換点となる作品。
00概要
『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(Harry Potter and the Order of the Phoenix)は、デヴィッド・イェーツが監督したファンタジー映画である。米国で2007年7月11日、英国で翌12日、日本で7月20日に公開された。J.K.ローリングの同名長編小説(2003年刊)を原作とし、前作『炎のゴブレット』(2005)に続く本編シリーズ第5作にあたる。本作から監督はデヴィッド・イェーツに交代し、以後は最終作『死の秘宝 PART2』まで、彼が一人で計四本を連投することになる。
脚本は、シリーズで唯一スティーヴ・クローヴスが離れ、ロビン・ウィリアムズ主演『ピーター・パン』(1996)や『コンタクト』(1997)で知られるマイケル・ゴールデンバーグが手がけた。原作小説は本編シリーズ最長の800ページ超。それを映画はシリーズ最短の138分にまとめており、この圧縮こそが本作でもっとも難しい仕事となった。製作はデヴィッド・ヘイマンとデヴィッド・バロン、配給はワーナー・ブラザース。撮影監督には、クシシュトフ・キェシロフスキ作品で知られるスワヴォミル・イジャックを起用。本編シリーズの色調は、ここで一気に冷たく硬質なものへと転じる。
物語の出発点は、前作『炎のゴブレット』の墓地でヴォルデモートが復活し、セドリック・ディゴリーが殺された——その事実を、魔法省が公式に否定したことにある。コーネリウス・ファッジ魔法大臣は、ダンブルドアとハリーの証言を『学校長と十五歳の少年が結託し、権力を簒奪しようとしている』というデマにすり替え、日刊予言者新聞を通じて国民に流し続ける。ホグワーツには、魔法省高等尋問官として新任の闇の魔術に対する防衛術教師ドローレス・アンブリッジが送り込まれる。生徒たちは『実技は危険を生む』という名目で杖の使用を禁じられ、さらに教育令という名の独裁的な校則が次々と張り出されていく。
ハリー・ポッターはこの息苦しい一年のなか、十五歳の自分の怒りと孤独を抱えながら、隠れて防衛術を学ぶ生徒集団『ダンブルドア軍団(D.A.)』を率いることを引き受ける。そして物語の最終盤、魔法省の地下『神秘部』には、ハリーが生まれた夜に告げられた予言の一文が球体に封じられている——『どちらかが他方の手で死ぬまで、二人とも生きてはいけない』。本記事は、結末を含む全編の内容に踏み込む。シリウス・ブラックがどう死ぬか、ダンブルドアとヴォルデモートが魔法省ロビーでどう戦うか、ハリーが校長室で予言の全文をどう受け止めるか——その答えまでを記すため、初見の驚きを保ちたい読者は、まず本編を鑑賞してから読み進めることを勧める。
主要データ
- 原題
- Harry Potter and the Order of the Phoenix
- 原作
- J.K.ローリング(2003年・ブルームズベリー)
- 監督
- デヴィッド・イェーツ(本作で初登板)
- 脚本
- マイケル・ゴールデンバーグ
- 音楽
- ニコラス・フーパー(本作で初登板)
- 撮影
- スワヴォミル・イジャック
- 美術
- スチュアート・クレイグ
- 編集
- マーク・デイ
- 公開
- 2007年7月11日(米)/12日(英)/7月20日(日本)
- 上映時間
- 138分(シリーズ本編で最短)
- ジャンル
- ファンタジー、青春劇、政治劇、ダーク・ファンタジー
- 舞台
- 1995-1996年の英国(リトル・ウィンジング/グリモールド・プレイス十二番地/魔法省/ホグワーツ城/神秘部)
01あらすじ
以下に、結末までを含む全編のあらすじを順を追って記す。リトル・ウィンジングを襲うディメンターと、未成年魔法使いに科された魔法使用の懲戒尋問に始まり、グリモールド・プレイス十二番地の不死鳥の騎士団の隠れ家、魔法省から高等尋問官として送り込まれたアンブリッジの着任、次々と発布される教育令へと話は進む。やがてハリーたちはダンブルドア軍団(D.A.)を結成し、必要の部屋で秘密の実戦訓練を重ねていく。さらに占い学教師トレローニーの解雇とフィレンツェの着任、ハリーが受けるオクルメンシー(閉心術)の特訓、フレッドとジョージが花火で巻き起こす痛快な退学劇が描かれる。そして必要の部屋での裏切りとアンブリッジの罠、禁じられた森のフィレンツェと半人馬たちの一件を経て、物語は神秘部に隠された予言の球へと向かう。シリウス・ブラックがベラトリックス・レストレンジの呪文を受けてヴェールの彼方へ落ちる場面、魔法省ロビーで繰り広げられるダンブルドアとヴォルデモートの壮絶な決闘、そして校長室で明かされる予言の全文まで、その顛末を余さず追っていく。
リトル・ウィンジングのディメンター襲撃
映画は、風のない夏のサリー州・リトル・ウィンジング、公園のブランコに腰かけて空を見上げるハリー・ポッターの姿から始まる。十五歳のハリーは、前年の墓地でセドリック・ディゴリーが殺され、ヴォルデモートが復活したあの夜を目撃しながら、誰にも信じてもらえないまま夏休みを過ごしている。日刊予言者新聞は『ハリー・ポッターのうそ』『ダンブルドアの惑乱』という見出しで彼を嘲り、プリベット通りのテレビは旱魃のニュースを流すばかり。魔法界の異変は、マグルの新聞には一行も載らない。
従兄ダドリーとその取り巻きに絡まれた帰り道、ハリーはダドリーと二人きりで地下道のトンネルに入る。とそこだけ空気が凍りつき、頭上の電灯のフィラメントが内側からゆっくりと弱まっていく。コンクリートの天井から霜が降り、吐く息が白く濁ったその瞬間、二体のディメンター(吸魂鬼)が現れる。一体はダドリーの口に直接覆いかぶさり、もう一体はハリーの首筋を撫でる。ハリーは杖を抜き、これ以上ないほど強い思いを込めて『エクスペクト・パトローナム!』と叫ぶ。銀色の牡鹿が杖先から走り出し、二体のディメンターを地下道の外へと追い払う。
通報を受けて駆けつけたミセス・フィッグは、自分がスクイブ——魔法使いの家系に生まれながら魔法が使えない者——であり、ダンブルドアの指示で長年ハリーを陰から見守ってきたことを、その場で打ち明ける。プリベット通りに戻ったハリーの寝室の窓には、その晩のうちにフクロウが運んだ『未成年の制限つき魔法の使用に関する法令違反』の通知が舞い込む。杖を折られる寸前まで追い詰められ、通知には魔法省での懲戒尋問への召喚状まで同封されていた。私的な夏休みは、ここから政治そのものに巻き込まれていく一夏へと変わっていく。
グリモールド・プレイス十二番地と不死鳥…
夜のロンドン。人影のない街路に、十一番地と十三番地のあいだだけ番地が抜け落ちた一画がある。そこに、ハリーの目の前で石造りの古い住宅がきしみをあげながら『出現』する。グリモールド・プレイス十二番地。ブラック家が代々受け継いできた屋敷であり、現在は『不死鳥の騎士団』の本部として使われている。玄関をくぐったハリーを、マッド-アイ・ムーディ、ニンファドーラ・トンクス、キングズリー・シャックルボルト、リーマス・ルーピンが出迎える。台所にはすでにウィーズリー一家とハーマイオニーが顔をそろえている。
シリウス・ブラックは、本来は自分の家であるはずのこの屋敷を心底嫌っている。玄関ホールには母ウォルブルガ・ブラックの肖像画が掛かり、幕の奥から『穢れた血の友よ、出て行け』と金切り声で叫ぶ。屋敷しもべ妖精のクリーチャーは、古いブラック家の遺物のあいだを歩き回りながら、シリウスへの恨み言を低くつぶやく。台所で配られた古い『不死鳥の騎士団』の集合写真には、ヴォルデモート全盛期に命を落としたフランクとアリス・ロングボトム(ネビルの両親)、そしてリリーとジェームズ・ポッター(ハリーの両親)が並んで写っている。自分という存在の根が、この台所のテーブルからまっすぐ続いている——ハリーはそれを、初めて目に見える形で理解する。
シリウスはハリーに、魔法省にはヴォルデモートが手に入れたがっている『武器』があり、騎士団はそれを守るために動いているとだけ告げる。だが詳細はダンブルドアの指示で伏せられたままで、ハリーは『大人だけが知っている真実』から子ども扱いで遠ざけられることに苛立ちを覚える。翌朝、シリウスはアーサー・ウィーズリーに連れられ、魔法省の懲戒尋問の会場までハリーを送っていく。別れぎわ、その肩を抱いて『何があってもお前は一人じゃない』と短く告げる。本作の中盤まで描かれる『家族としてのシリウス』の像を決定づける場面である。
魔法省の懲戒尋問とアンブリッジの登場
魔法省による懲戒尋問は、不可解にもウィゼンガモット(魔法法廷)の全員が顔をそろえる正式な大法廷で開かれる。中央の被告席に座らされたハリーが釈明を迫られるその正面には、コーネリウス・ファッジ魔法大臣と、その隣でピンクのカーディガンをまとい微笑む、ずんぐりとした女性がいる。ドローレス・アンブリッジ魔法大臣付次官である。いたずらに高い声と、にこやかな目元の奥に潜む底冷えするような冷たさに、観客はすぐさま違和感を覚えるだろう。
ハリーは、二体のディメンターが従兄ダドリーを襲ったため、正当防衛として守護霊の呪文を使ったのだと説明する。だが法廷の反応は冷ややかで、ファッジは『未成年者の魔法と、マグルの目に触れる魔法の二重違反である』と容赦なく詰め寄る。そこへダンブルドアが弁護人として現れ、目撃者のミセス・フィッグを召喚して、ディメンター襲撃の事実を立証してみせる。投票の結果、ハリーは無罪となる。しかしダンブルドアは法廷を出ると、一度もハリーと目を合わせないまま去っていく。最も信頼する大人に、なぜか避けられている——この『無視される夏』こそが、本作におけるハリーの感情の土台になっていく。
ホグワーツへ戻る列車のなかで、ハリーはレイブンクローの四年生ルーナ・ラブグッドと初めて出会う。ふんわりとした金髪のルーナは、雑誌『ザ・クィブラー』を逆さまに開いて読みながら、『ラックスパートに耳から潜り込まれないように』しているのだと語る。学校全体から少しだけ浮いた場所にいるこの少女が、本作と次作以降を通じて、ハリーの最も近い理解者の一人になっていく。やがて歓迎の宴で、卓上演説に立ったダンブルドアが新任教師として紹介したのは、あの法廷でハリーを冷ややかに見下ろしていたピンクの女性——魔法大臣付次官ドローレス・アンブリッジ、新しい闇の魔術に対する防衛術の教師だった。
教育令とアンブリッジの教室
アンブリッジの最初の授業は、本作がどこへ向かうのかを生徒たちに一瞬で悟らせるものだった。黒板には『杖をしまいなさい。実技は不要です』の文字。彼女は微笑みながら告げる。『ご存じの通り、近年の闇の魔術防衛術の授業は危険な方向に偏ってきました。みなさん、今日からは安全に、本だけを読んで学びましょう』。ハリーが『でも、ヴォルデモートが戻ってきました』と口にした途端、教室は凍りつく。アンブリッジはあくまで冷静に、『嘘をついてはいけません』と返すのだ。
放課後、罰則を命じられたハリーが呼び出されたのは、アンブリッジのピンク色の執務室だった。壁一面の皿には不気味なほど愛らしい子猫の絵が描かれ、絶え間なく鳴き声を上げている。差し出されたのは一本の黒い羽根ペンと羊皮紙。インクは渡されない。命じられるまま『I must not tell lies(うそをついてはなりません)』と書き始めると、文字を綴るそばから、同じ言葉がハリーの左手の甲に赤い切り傷となって浮かび上がる。羽根ペンが使うインクは、ハリー自身の血だった。夜が更けるほど傷は深く刻まれていく『血の罰書(ブラッド・キル)』であり、やがてその文字は、彼の皮膚に永久の傷跡として残る。
アンブリッジの権力は、やがて城の壁そのものを侵食していく。魔法大臣の権限で発令される『教育令』が、一枚、また一枚と城壁に張り出されるのだ。男女生徒は二十センチ以上の距離を保たねばならない。三人以上の生徒の集団は組織と見なし、即時解散。教師は授業外で生徒に何の助言も与えてはならない。そして第二十三号――『ホグワーツ高等尋問官』を設置し、教師たちの授業を視察・採点する権限を魔法省に与えるというものだった。みずから高等尋問官に就いたアンブリッジは、トレローニー占い学教授の授業を中断させ、ついには城の中庭で、生徒たちが見守る前で彼女を解雇する。涙にむせぶトレローニーを救ったのは、ホグワーツの敷地外には出さないと約束したダンブルドアだった。そして空席となった占い学教授の座には、禁じられた森から半人馬フィレンツェが城内へと招き入れられる。
ダンブルドア軍団の発足
アンブリッジの“本を読むだけ”の授業が続くなか、ハーマイオニー・グレンジャーが声をあげる。実技で防衛術を学ばなければ、試験にも、やがて訪れる戦いにも何ひとつ対処できない。ハリーを教師役に、生徒たちがひそかに集まって実技訓練をする——道はそれしかない、と。最初は「自分に教える資格などない」と渋っていたハリーだが、ホグズミード村の店「ホッグズ・ヘッド」の奥、小さなテーブルを囲むようにハーマイオニーとロンが集めた二十数人の生徒を前に、しぶしぶ承諾する。
ホグワーツ城七階の壁の前を「私たちには訓練の場所が必要だ」と願いながら三度往復したハーマイオニー。すると、それまで存在しなかった木の扉が現れる——「必要の部屋」だ。中はクッションを敷いた床に杖立て、稽古用の的、闇の魔術の教科書が並び、理想の練習場として整っていた。生徒たちは羊皮紙に名を記して参加を誓い、組織の名は皮肉を込めて「ダンブルドア軍団(D.A./Dumbledore's Army)」と決まる。発足の場では、ネビル・ロングボトムが「武装解除(エクスペリアームス)」を成功させ、ルーナ・ラブグッドが守護霊の呪文で銀色の野兎を呼び出し、ジニー・ウィーズリーがチョー・チャンに「リダクトー(破壊)」を見せる——シリーズで最も多幸感に満ちた数分間だ。
ハリーが守護霊の呪文を教える場面では、それぞれの性格を映した銀色の動物が思い思いに走り回る。ハーマイオニーは銀色のカワウソ、ロンはジャック・ラッセル・テリア、ルーナは野兎、ジニーは馬。チョー・チャンの白鳥はハリーの牡鹿と並んで駆け、ある日の練習の後、ヤドリギの下で二人は短い口づけを交わす。だが翌日からチョーは涙にむせび、やがて二人は別れに至る——前年に死んだセドリック・ディゴリーの記憶を、彼女はまだ抱えたままだった。本作の青春劇は、笑いと優しさだけでは続かないことを、観客にきちんと突きつける。
オクルメンシー
夏以来、ハリーはヴォルデモートの怒りや欲望が額の傷を通して直接流れ込んでくる感覚に苦しめられていた。アーサー・ウィーズリーが魔法省・神秘部の廊下で巨大な蛇に襲われた夜、ハリーはベッドのなかでその一部始終を『蛇の視点』から見ていた——本人としてではなく、蛇そのものとして。アーサーはかろうじて一命を取り留めるが、ダンブルドアはこの事件によって、ヴォルデモートとハリーの心がすでに繋がってしまったことを確信する。
ダンブルドアは、ハリーに『心の防壁術(オクルメンシー)』を授けるため、教師として最も忌み嫌う相手を選ぶ——セブルス・スネイプである(前作までと変わらず原作通りの薬学教師として登場するが、本作ではオクルメンシーの教師役も兼ねる)。地下牢の教室で行われるレッスンは荒っぽい。互いに杖を構え、スネイプが『レジリメンス(開心術)!』と唱えてハリーの最も恥ずかしい記憶を覗き込んでいく。ダーズリー家の食卓で蹴られる幼いハリー、ボートに浮かぶ初恋の少女チョウと気まずく目線が合う記憶、そして母の悲鳴。スネイプは『心を空にしろ』と冷たく繰り返すが、ハリーの怒りはどうしても防壁を立ち上げてくれない。
ある日、スネイプが部屋を出た隙に、ハリーは机の上のペンシーブ(憂いの篩)に銀色の糸として浸された記憶を覗いてしまう。そこに映っていたのは、五年生のジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックが、地面に倒れた十五歳のセブルス・スネイプを杖で吊るし上げ、衆目に晒す場面だった。憧れていた『父』の像が、実は意地悪ないじめっ子だったかもしれない——スネイプの呼ぶ『Snape's Worst Memory』を、ハリーはこのとき初めて目撃する。引き戻されたハリーに、スネイプは『二度と教えん』と冷たく言い放ち、レッスンは打ち切られる。これが終盤、ハリーが神秘部へと連れて行かれるのを誰も止められなかった理由になる。
フレッドとジョージの花火と退学
アンブリッジが校長の座を奪い、ダンブルドアが大蛇のごとく一夜にして城から姿を消したあと、ホグワーツの規律は頂点に達する。城の壁という壁には教育令の貼り紙があふれ、その数は二十数本にのぼった。廊下には、アンブリッジが組織した尋問特別班のスリザリン生が腕章をつけて見回りに立つ。中庭の柱には、罰則を受ける生徒が括りつけられたまま立たされている。
そんなある日の試験会場——午後の大広間に、O.W.L.(普通魔法レベル試験)の机が整然と並ぶ。そこへ双子のフレッドとジョージ・ウィーズリーが、扉の上から自家製の花火を派手に投げ込んだ。観客にしか見えない目配せを交わすと、二人は箒に飛び乗り、城内を巨大な火の龍と化した花火で駆け抜けていく。アンブリッジの教育令の貼り紙を一枚残らず焼き払い、やがて大広間の天井を突き抜けて外の青空へと飛び去る。取り残された生徒たちは、初めて声を上げて笑った。空に舞い上がる花火の竜に、ネビルが拳を突き上げる。シリーズで最もカタルシスに満ちた反乱の一場面である。
夜の必要の部屋。ハリーは、フィレンツェに教わった占い学の星座の話を仲間に伝えながら、再びヴィジョンの幻に襲われる。ロンドンの魔法省・神秘部の廊下で、シリウス・ブラックがヴォルデモートに拷問されている——その悲鳴が、ハリーの頭の中に直接響く。ハーマイオニーは「これは罠かもしれない。スネイプに伝えるべきだ」と引き止める。だが、ハリーは行動を選んだ。仲間とともに、ロンドンへ向かう、と。
裏切りと半人馬の森
シリウスがアンブリッジの暖炉に呼び出されていないか確かめようと、ハリーとハーマイオニーは留守の隙を突いてアンブリッジの執務室へ忍び込み、暖炉の灰にフルー粉を振りかける。だが暖炉から首だけを突き出した瞬間、執務室の扉が開く。待ち構えていたアンブリッジ本人と尋問特別班に、その場で取り押さえられてしまう。時を同じくして、廊下の角ではロン、ジニー、ネビル、ルーナがマルフォイたちに杖を奪われ、縛り上げられていた。
アンブリッジはスネイプを執務室に呼びつけ、真実薬(ヴェリタセラム)でハリーから情報を吐かせるよう命じる。スネイプは『差し上げられる残量はもうない。前回お渡しした分が最後だった』と冷たく言い放つ。その目線を受け、ハリーは今しがた見たヴィジョンを伝えようと決める——『私がパッドフット(シリウスの仇名)を見た』。短く告げただけだが、スネイプは無表情のままその意味を即座に汲み取り、立ち去る。
業を煮やしたアンブリッジは、ついに禁断の呪文『クルーシオ(磔の苦しみ)』をハリーにかけようとする。そこで機転を利かせたのがハーマイオニーだ。『先生のおっしゃる武器の隠し場所を、お見せします』と告げ、二人が連れ出されたのは禁じられた森である。ハーマイオニーが意図的にアンブリッジを森の奥深くへと誘い込むと、やがて半人馬たちが姿を現し、彼女ひとりを群れの中央へと引きずり去っていく。最後の悲鳴が森にこだまするなか、どこへ連れ去られたのかは観客には見せられない——後日、彼女はゾッとした表情のまま、医務室から城を去ることになる。半人馬たちという脅威を生徒同士の喧嘩に巻き込んだ罪を、彼女自身が背負わされた結末だった。
神秘部の戦いと予言の球
森から戻ったハリー、ロン、ハーマイオニー、ネビル、ジニー、ルーナの六人は、ハグリッドが世話をしていたセストラル——死を見た者にだけ姿が見える、骨と皮ばかりの黒い翼を持つ馬——にまたがり、夜空をロンドンへと駆ける。その姿を見ることができるのはハリーとルーナだけで、残る四人は何も見えないまま宙に浮いた鞍にしがみつくほかない。ロンドンの夜の街路に降り立つと、人気のない電話ボックスから魔法省・神秘部の地下へと潜り、薄暗い回廊の奥、埃をかぶった無数の青いガラス球が並ぶ棚へとたどり着く。
棚の一つに、二人だけが手を触れることを許された予言の球がある。銀のラベルには『S.P.T. to A.P.W.B.D.(シビル・トレローニーからアルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアへ)/Dark Lord and (?) Harry Potter』と記されている。ハリーが球を手に取った瞬間、銀色の死喰い人マスクが回廊の闇から立ち上がった。ルシウス・マルフォイ、ベラトリックス・レストレンジ、ヌッタクラブ、マクネア、ロドルファス・レストレンジら十二人ほどが六人の子どもを取り囲み、『球をよこせば誰も傷つけはしない』と凍りついた笑みで告げる。
ハリーが球を投げ捨てたのを合図に、六人と死喰い人たちの戦いが始まる。ガラス棚の高い列が次々と崩れ落ち、保管されていた何千もの予言の球が床に砕け散り、亡霊のような声で予言を口々につぶやく。逃げ込んだ円形の『ヴェールの間』では、石のアーチに揺れる薄い黒い布——『死のヴェール』——のすぐかたわらで戦闘が続く。ネビルは顔に傷を負いながらも初めて杖を振るって死喰い人を退け、ルーナは落ち着いた声で『リダクト!』を繰り返す。子どもたちだけではもう保たない——そう感じた瞬間、アーチの天井から銀色の閃光とともに『不死鳥の騎士団』の大人たちが姿現わしで駆けつける。シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、マッド-アイ・ムーディ、トンクス、キングズリー・シャックルボルトだ。
シリウスの死とヴェールの向こう
シリウスはハリーを抱きとめると、すぐにその脇に立ち、年下のいとこベラトリックス・レストレンジへ杖を向ける。かつてシリウスを精神病院送りにした親族であり、彼を誰より憎む人物の一人だ。シリウスは「よく来たな、ベラ」と挑むように笑い、ベラトリックスの第一撃を弾き返すと、自らの二発目で「ほとんど」当ててみせる。だが、この笑い声こそ、観客が本作で目にするシリウスの最後の表情となる。
笑い終わるより早く、ベラトリックスの杖先から赤い閃光が走り、彼の胸の中央を貫いた。シリウスは前のめりにわずかに揺れ、目を見開いたまま、ゆっくりと後ろのアーチの石枠を越えていく。そしてその奥に張られた薄い黒布、「ヴェール」のなかへ吸い込まれるように消えた。落ちた瞬間、その体はもうどこにもない。ハリーは石段を駆け降り、「シリウス!」と叫んでヴェールの裾を引き剥がす。だが、その向こうには何もない。リーマス・ルーピンがハリーの腰を掴み、「行ってはだめだ、ハリー!もう戻ってこないんだ」と耳元で繰り返す。シリーズで最も短く、最も静かで、そして最も決定的な死である。
構えることも忘れ、ハリーはただ一人でベラトリックスを追い、ロビーへと駆けあがる。魔法省の中央ロビー。大理石の床に高い天井、その中央には魔法使い・魔女・小鬼・屋敷しもべ妖精・半人馬をかたどった「魔法兄弟の泉」が立つ。ベラトリックスはその水盤の縁で笑いながらハリーを待ち受けていた。ハリーは生まれて初めて「クルーシオ(磔の苦しみ)」を放つ。彼女の体は一瞬弾かれるが、すぐに立ち直り、「憎しみだけでは、もっと意味の濃いものが必要よ」と笑ってみせる。
ダンブルドア対ヴォルデモートの決闘
笑い声を断ち切るように、ロビーの暖炉群から黒煙の渦が立ち昇り、闇の帝王ヴォルデモートが姿現わしする。骸骨めいた白い顔、裂けた瞳孔の蛇の目——彼はハリーに向けて『アバダ・ケダブラ』を放つ。緑色の閃光が走った直後、その軌道に重なるように、中央の泉から金色の魔女の彫像が立ち上がり、ハリーをかばう。続いて他の彫像群も次々と動き出し、ベラトリックスを羽交い絞めにする。ロビーに到着したダンブルドアが、彫像も、泉の水も、床の大理石までも、たった一本の杖で操り、魔法省の中枢そのものを動かしているのだ。
ダンブルドアとヴォルデモートのロビー決闘は、剣戟ではない。水盤の水が二人の杖から放たれる呪文に応じ、空中で巨大な蛇の形になり、龍の頭になり、火の鳥となって、最後にはガラスの破片が竜巻状に二人の周囲を舞う。ダンブルドアは静かに告げる。『負けたな、トム』。『お前は他人を傷つけ、奪い、殺すことを覚えた。だが、愛も、自分自身の死を恐れぬ心も、持ったことがない。それがお前の最大の弱さだ』。
敗色を悟ったヴォルデモートは、最後の一手としてハリーの体に憑依する。床に倒れたハリーの瞳が一瞬で黒く濁り、額の傷から黒煙が滲み、その口がヴォルデモートの声で『殺してしまえ、ダンブルドア。私を殺せば、この子も死ぬ』とつぶやく。ダンブルドアは杖を下ろし、近づいて床に膝をつくと、『君はかわいそうな人だ、トム』と語りかける。やがてハリーは、ダンブルドアと友の顔を、そして失ったシリウスの記憶を心の中に呼び戻し、ヴォルデモートに告げる。『お前は本物の友を一人も持ったことがない』。憑依は耐えきれず、黒煙はハリーの体から噴き出して床に渦巻く。そしてヴォルデモートとベラトリックスは魔法省のロビーから姿を消す。直後、煙突を流れる粉の中からファッジ魔法大臣と複数の魔法省職員が到着し、復活したヴォルデモートが実在することを、自らの目で認めることになる。
予言の全文と新しい朝
ダンブルドアの執務室に連れ戻されたハリーは、机の上の小物を一つずつ叩き割りながら、シリウスの死も、トレローニーの予言も、その何もかもを誰のせいにすればいいのか分からず、行き場のない怒りをぶつける。ダンブルドアは止めようとしない。机を、棚を、銀色の魔法道具を破壊させるにまかせ、そのうえで、これまで自分がハリーから距離を置いてきた理由を初めて口にする——ヴォルデモートがハリーを通じて自分の心を覗くようになっており、近づくこと自体が危険だったのだ、と。
そしてダンブルドアは、長年ひとりで背負ってきた予言の全文を、ペンシーブ(記憶を蓄える石の水盆)から取り出してハリーに聞かせる。シビル・トレローニーの声が告げる。『闇の帝王の宿命の敵は、彼から逃れた者、彼に三度逆らった者、第七の月の終わりに生まれた者……闇の帝王は彼に印をつけ、自分自身の対等の者に変えてしまう……どちらかが他方の手で死ぬまで、二人ともこの世に生きてはいけない。第七の月の終わりに生まれる者……』。予言が指すのは、同じ時期に生まれた二人——ハリー・ポッターと、ネビル・ロングボトム——のいずれかであり、ヴォルデモートが標的に選んだのは前者だった。ダンブルドアは静かにそう告げる。
ホグワーツ特急の窓の外を、夏の英国の田園が流れていく。プラットフォーム九と四分の三にハリーを迎える親戚の姿はないが、ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビル、ルーナが彼の両脇に並ぶ。トンクスとムーディ、リーマス・ルーピンら大人たちは、ダーズリー一家に向けて『この子の扱いを誤れば、私たちが直接訪ねることになる』と、言葉にせぬまま釘を刺す。ハリーはルーナと小声で別れを交わし、ジニーと一瞬視線を合わせ、自分の手の甲に残った『I must not tell lies』の傷痕に目を落とす。もう子どもではない、だがまだ大人でもない——その曖昧な表情のまま、少年は列車のドアを出ていく。
そして本作の最後の数十秒は、ロンドンの新聞販売店の店先に日刊予言者新聞の山が積まれる映像へと重なる。号外の一面を飾る見出しは、これまで彼を『嘘つき』呼ばわりしてきた同じ新聞のものとは思えぬほど、大きく組まれている——『ハリー・ポッター、闇の帝王とその死喰い人を目撃/魔法省、闇の帝王の復活を正式に認める/そして本当のことを言っていたのは、この十五歳の少年だったのか』。次作『謎のプリンス』冒頭の見出し『選ばれし者か』へとまっすぐ続く道筋が、ここでくっきりと観客に示される。
関連リンク
登場要素
本作に登場・言及される主な要素を分類して紹介しよう。ホグワーツの内側、すなわち学校や生徒、教師たちの世界と、その外側に広がる魔法省、不死鳥の騎士団本部、神秘部——本作はこの両方の地図を初めて大きく押し広げてみせる一作でもある。ここで描かれる地名や組織名、呪文の数々は、次作以降の物語をひもとくうえで重要な手がかりとなっていく。
- ハリー・ポッター
- ロン・ウィーズリー
- ハーマイオニー・グレンジャー
- ジニー・ウィーズリー
- ネビル・ロングボトム
- ルーナ・ラブグッド
- ドラコ・マルフォイ
- チョー・チャン
- シェイマス・フィネガン
- ディーン・トーマス
- パーバティ・パチル
- ラベンダー・ブラウン
- コリン・クリービー
- ジニーらD.A.メンバー
- ナイジェル
- アルバス・ダンブルドア
- ミネルバ・マクゴナガル
- セブルス・スネイプ
- ルビウス・ハグリッド
- シビル・トレローニー
- フィレンツェ(半人馬)
- フィリウス・フリットウィック
- ポモーナ・スプラウト
- ロランダ・フーチ
- アーガス・フィルチ
- ペチュニア・ダーズリー
- ヴァーノン・ダーズリー
- ダドリー・ダーズリー
- アラベラ・フィッグ
- シリウス・ブラック
- リーマス・ルーピン
- ニンファドーラ・トンクス
- アラスター・ムーディ(マッド-アイ・ムーディ)
- キングズリー・シャックルボルト
- アーサー・ウィーズリー
- モリー・ウィーズリー
- フレッド・ウィーズリー
- ジョージ・ウィーズリー
- エマリーン・ヴァンス
- デダラス・ディグル
- マンダンガス・フレッチャー
- エルファイアス・ドージ(言及)
- コーネリウス・ファッジ魔法大臣
- ドローレス・アンブリッジ
- パーシー・ウィーズリー
- ヴォルデモート卿
- ベラトリックス・レストレンジ
- ルシウス・マルフォイ
- ロドルファス・レストレンジ
- ヌッタクラブ
- マクネア
- オーガスタス・ルークウッド
- アントニン・ドロホフ
- ジャグソン
- 尋問特別班(インクィジトリアル・スクワッド)
- ディメンター(吸魂鬼)
- セストラル
- 屋敷しもべ妖精クリーチャー
- 屋敷しもべ妖精ドビー
- 半人馬フィレンツェ
- 半人馬の群れ
- 巨人グロウプ(ハグリッドの異父弟)
- ヒッポグリフ バックビーク(ウィザーウィングス)
- 蛇ナギニ(言及)
- 守護霊の呪文(エクスペクト・パトローナム)
- 武装解除(エクスペリアームス)
- 気絶呪文(ステューピファイ)
- 破壊呪文(リダクト)
- 石化呪文(ペトリフィカス・トタルス)
- クルーシオ(磔の苦しみ)
- アバダ・ケダブラ
- オクルメンシー(心の防壁術)
- レジリメンス(開心術)
- プロテゴ(盾)
- セクタムセンプラ(言及なし/次作)
- ホメナム・レベリオ(言及なし)
- セレンプラ
- リオファイ
- 姿現わし/姿消し(アパレート)
- フルー(暖炉移動術)
- 未成年の制限つき魔法の使用に関する法令
- 杖
- 予言の球
- ペンシーブ(憂いの篩)
- ザ・クィブラー誌
- 日刊予言者新聞
- 羽根ペン(血の罰書)
- 教育令の張り紙
- 高等尋問官のバッジ
- 尋問特別班の腕章
- アンブリッジの猫の絵皿
- 二面鏡(シリウスからハリーへ)
- ウィーズリー双子の悪戯商品(『U-No-Poo』『Skiving Snackbox』)
- フレッドとジョージの花火
- セストラル
- ホグワーツの教育令第二十三号
- ヴェールのアーチ
- リトル・ウィンジング(プリベット通り・公園・地下道)
- ロンドン(夜の街路)
- グリモールド・プレイス十二番地
- 魔法省(中央ロビー・尋問法廷・大臣執務室)
- 神秘部(予言の間・ヴェールの間・脳の間・愛の間/時間の間)
- ホグワーツ城
- 必要の部屋
- 禁じられた森
- ホグスミード村
- ホッグズ・ヘッド
- 天文台の塔
- 校長室
- 占い学の塔
- 中庭
- 大広間
- 不死鳥の騎士団
- ダンブルドア軍団(D.A.)
- 魔法省
- オーラー(闇祓い)
- 死喰い人
- 尋問特別班
- ウィゼンガモット(魔法法廷)
- ホグワーツ高等尋問官
- 教育令
- 予言
- ヴェール(生死の境)
- O.W.L.試験(普通魔法レベル試験)
15主要登場人物
本作は、十五歳になったハリー・ポッターが抱える孤独と怒り、新たに赴任した暴君ドローレス・アンブリッジ、そして名付け親シリウス・ブラック——この三本の柱を軸に物語が進んでいく。さらに人物面では、新顔のルーナ・ラブグッドとフィレンツェが加わり、原作では名前だけが不気味な存在感を放っていたベラトリックス・レストレンジがついに姿を見せる。こうした顔ぶれの広がりが、本作ならではの見どころだ。
ハリー・ポッター
本作のハリーは、シリーズで最も「怒っている」ハリーだ。前年、親友の同級生セドリックを目の前で殺され、しかもその事実を世界中の誰もが信じてくれない——そんな状況に投げ込まれた十五歳の少年は、グリモールド・プレイスでロンとハーマイオニーに「なぜ夏中ぼくに何も知らせなかった」と怒鳴り、ホグワーツでは「嘘つき」と陰口を叩く同級生たちと殴り合い寸前になる。この怒りの表現こそ、ダニエル・ラドクリフの本作の演技の核である。それまでの「健気な少年」の延長ではない側面が、画面の上で初めて立ち上がるのだ。
同時に本作のハリーは、初めて「先生」の側に立たされる人物でもある。必要の部屋でD.A.の二十数人を前に、「守護霊の呪文」「武装解除」「気絶呪文」を教える彼の姿は、十一歳の時に受けたスネイプの教室を完全に裏返したような、対等で寛容で、実技を重んじる教師像だ。最終盤、ヴェールの向こうへ消えるシリウスの体を石段から見送るときの彼の顔——「叫ぶ」のではなく、「理解する」顔——は、シリーズの一つの折り返し点と言ってよい。
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ドローレス・アンブリッジ
本作の真の主役は、ある意味で彼女だ。ピンクのカーディガン、白い帽子、襟元に結ばれた黒いベルベットのリボン、毛足の短い猫を描いた絵皿、机に並ぶ砂糖菓子の壺——その柔らかな小物に囲まれながら、彼女は子どもの皮膚に血で『うそをついてはなりません』と刻ませ、生徒たちから杖を取り上げ、半人馬の住む森へ躊躇なく呪文を放つ。他人を傷つけるという行為を、自分は法に従っているという確信と、誰よりも甲高い愛らしい笑いで包み込んで実行してみせるのである。
イメルダ・スタウントンの抑えた芝居は、暴力に拳を握る悪役より遥かに恐ろしい「官僚的な悪」を造形した。彼女は皇帝でも闇の帝王でもない。書類とバッジ、そして数百本に及ぶ教育令だけでホグワーツを国家管理下に置こうとする、中間管理職の権化である。サターン賞助演女優賞ノミネートをはじめ、その演技は公開以降、各国の批評で「近年もっとも記憶に残る悪役の一人」と繰り返し言及されることになった。
シリウス・ブラック
三年生のときアズカバンを脱獄して以来、シリウスはハリーにとって唯一の血縁に近い大人として描かれてきた。その彼が、本作ではわずか数十分とはいえ、ただ一度だけ『安らいだ』姿を観客に見せる。グリモールド・プレイスの台所で、クリスマスの夜にハリーの肩を抱き、騎士団の集合写真を見せながら『ジェームズによく似てきたな』と笑う——本作で最も柔らかな表情を浮かべる登場人物が、彼である。
だがその家は、彼自身の生家にほかならない。母の肖像画が金切り声をあげる家であり、十二歳で家出して以来、ずっと逃れたかった呪われた屋敷でもある。彼の自由は法的にはなお『指名手配中』のものでしかなく、魔法省のロビーで命を落とすという最期にも皮肉がにじむ。ヴェールの向こう側へ落ちることで、彼は初めて『法の届かない場所』へとたどり着くのだ。ゲイリー・オールドマンは台詞の減る後半でも、ベラトリックスへの嗤いとハリーへの愛情という相反する二つを、わずか数分の表情のうちに同居させてみせた。
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ルーナ・ラブグッド
本作で初登場するレイブンクローの四年生で、シリーズ中盤以降、ハリーにとって最も率直な理解者となる人物だ。演じたイヴァナ・リンチは原作の熱心なファンで、公開オーディションで選ばれた当時十五歳の新人。その落ち着いた声と、どこか焦点をずらしたまなざしは、原作のルーナのイメージを画面の上に一瞬で定着させた。
ルーナが果たす最大の役割は、誰かを慰めることにある。シリウスを失ったハリーが校庭の片隅に一人で座っているとき、彼女は静かに告げる。「私も九歳のとき、呪文の事故で母を亡くしました。でも、いなくなってしまったわけではないと、私は感じています」。原作にもあるこの場面は、本作のもっとも美しい数十秒のひとつだ。
ネビル・ロングボトム
これまでのネビルは、『杖を逆さに持ったまま落とす生徒』として笑いを担う脇役にすぎなかった。だが本作で、初めて自らの物語の主役の一端を引き受ける。両親フランクとアリス・ロングボトムは、ヴォルデモート全盛期にベラトリックス・レストレンジらの拷問呪文『クルーシオ』で精神を破壊され、いまも聖マンゴ魔法疾患傷害病院で目を覚まさない。本作は原作通り、この事実をハリーの前で初めて明かす。
D.A.の練習で武装解除を成功させ、ネビルが思わず拳を握る瞬間。神秘部の戦いで顔に呪文の傷を負いながら、それでも杖を放さない場面。そしてヴェールの間で『私たち、行かなきゃ、ハリー』と告げ、仲間を背中で守る姿——マシュー・ルイスの抑えた芝居が積み重なっていく。シリーズ後半でネビルが何度も画面の中心を担う、その伏線が本作で確実に置かれている。
ベラトリックス・レストレンジ
アズカバンの大量脱獄によって本作半ばに解き放たれる、ヴォルデモート最強の側近の一人である。シリウス・ブラックの従姉妹に当たり、ブラック家に流れる闇の血筋を体現する人物として配置されている。ヘレナ・ボナム・カーターはここで本格的に登場し、以降『死の秘宝 PART2』までシリーズの主要な悪役として演じ続けることになる。
彼女の演技の真骨頂は、子どもがかんしゃくを起こすような甘ったるい節回しと、本物の殺意とを、ひと息の台詞のなかに同居させてしまう点にある。神秘部のヴェールの間で『当てた、当てた!』と歌うように叫び、シリウスを撃ち落とすや『私が、彼を、殺した!』と振りまで付けて踊ってみせる場面は、本作の悪役表現の核と言っていい。ヴェールの向こうへなだらかに落ちていくシリウスの姿と、ベラトリックスの高笑いの対比が、観客の記憶のなかでシリウスの死を二重に焼きつける。
アルバス・ダンブルドア
本作のダンブルドアは、一年を通じてハリーを意図的に避け続ける。原作通り、ヴォルデモートがハリーを通じてその心を覗くようになっており、近づくこと自体が危険をはらんでいたためだ。だがその理由は、観客にもハリーにも、終盤の校長室の場面まで明かされない。最も近かったはずの大人が、自分を見てくれない一年――。少年の目に映ったその孤独が、本作のもう一つの隠れた主題である。
終盤、魔法省のロビーでヴォルデモートと対峙するダンブルドアは、シリーズで初めてその全力を観客の前にさらす。水盤の水を蛇に変え、炎に変え、砕けたガラスを竜巻へと束ねる。それまでの「杖を振って光を放つ」戦闘とは抽象度が段違いで、ダンブルドアという人物の格をこの画面が初めて示してみせた。マイケル・ガンボンは本作から、年長者の優しさのなかに「すでに次の世代へ何かを託す覚悟」をにじませる演技へと踏み込み、その線を続く『謎のプリンス』『死の秘宝』へと引き継いでいく。
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舞台と用語
舞台は前作までと同じ英国魔法界だが、本作で初めて「学校の外側の世界の地図」が大きく開かれる。グリモールド・プレイス十二番地は、十一番地と十三番地の間に魔法で隠された旧家であり、ブラック家に流れる暗い血脈を象徴する屋敷だ。魔法省は、中央ロビーにそびえる「魔法兄弟の泉」、ウィゼンガモットの大法廷、そして最下層の「神秘部」として描かれる。神秘部には予言の間、ヴェールの間、脳の間、時間の間、愛の間など複数の研究室があり、その入り組んだ地理は、シリーズ全体の宝物庫として今後も幾度となく立ち返られることになる。
用語の面では、「不死鳥の騎士団」「ダンブルドア軍団(D.A.)」「教育令」「高等尋問官」「尋問特別班」「O.W.L.試験」「オクルメンシー/レジリメンス」「セストラル」「ヴェール」「予言の球」が、本作で初めて、あるいは本格的に説明される鍵となる概念だ。ホグワーツの「必要の部屋」も、前作までは存在がほのめかされる程度だったが、本作で初めて固有の名を得て、生徒たちがひそかに集う場としてその全貌を現す。これらの言葉は暗記するよりも、場面のなかで人物が何を選び取るかを通して理解するほうが、自然と腑に落ちるだろう。
24制作
本作を境に、シリーズは「現代英国映画」へと大きく舵を切る。監督、脚本家、撮影監督、作曲家のすべてが入れ替わり、映像、音楽、語り口の三方向から、前四作が築いた「古典的な英国ファンタジー」と決別する判断が下された。原作の物語と人物の細部を最も大胆に削ぎ落とし、多くを語らず暗示にとどめた一作でもある。
脚本
本作の脚本は、シリーズで唯一スティーヴ・クローヴスが手がけていない。クローヴスは私的な事情に加え、次作に向けた充電期間として一作だけ離れ、後任にはマイケル・ゴールデンバーグが起用された。ゴールデンバーグは『ピーター・パン』(1996)や『コンタクト』(1997)の脚本家として知られる。800ページを超える原作小説を138分の映画に凝縮する作業は「シリーズで最も難しい翻案」と言われたが、彼は『ハリーの怒り』『アンブリッジの台頭』『シリウスとの別れ』『神秘部の予言』という四本の縦糸に物語を絞り込むことで、その難題を乗り越えた。
その結果、原作で大きな比重を占めていた挿話の数々が大胆に省略・凝縮された。聖マンゴ魔法疾患傷害病院でのロングボトム夫妻との再会、ウィーズリー家の長兄パーシーと家族の確執、クィディッチの公式試合、そしてハーマイオニーが組織する屋敷しもべ妖精解放戦線「SPEW」といった複数のサブプロットである。ローリング自身も脚本のチェックに加わり、とりわけ「予言」の解釈の精度については最後まで監修したと伝えられる。決定稿に対するスタッフの評価は当初分かれたものの、最終的には「シリーズで最も短く、最も濃い一作」として完成にこぎつけた。
キャスティング
三人組を演じるダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソンを中心に、本編シリーズの常連俳優陣も続投した。マイケル・ガンボン(ダンブルドア)、アラン・リックマン(スネイプ)、マギー・スミス(マクゴナガル)、ロビー・コルトレーン(ハグリッド)、ゲイリー・オールドマン(シリウス)、デヴィッド・シューリス(ルーピン)といった顔ぶれである。今回の新キャストで最大の決定は、ドローレス・アンブリッジ役にイメルダ・スタウントンを起用したことだ。彼女は『ヴェラ・ドレイク』(2004)でヴェネチア国際映画祭女優賞に輝き、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされたばかり。その繊細で抑制の利いた芝居が、アンブリッジの「官僚的な悪」に見事にはまった。
ベラトリックス・レストレンジ役のヘレナ・ボナム・カーターも本作で初登場する。ティム・バートン作品で知られる彼女は、撮影中の出産などの事情から、本編での出番は原作より圧縮された。それでも「神秘部のヴェールの間」を一人で支配してみせる存在感を残している。ルーナ・ラブグッド役には、公開オーディションに応募してきた当時十五歳のイヴァナ・リンチが抜擢された。アイルランド出身で原作の大ファンだった彼女は、入院中の病床から手紙をしたためた経歴の持ち主。本人とキャラクターのイメージが見事に重なる、珍しい起用例となった。フィレンツェ役にはレイ・フェアロン(後に『ロミオとジュリエット』『ゲーム・オブ・スローンズ』に出演)が起用され、半人馬の声と動きには美術と特殊効果のスタッフが組み合わさって参加している。
美術と色の入れ替え
美術監督を務めたのは、本編シリーズ全作を一貫して手がけたスチュアート・クレイグ。本作で新たに造形されたのは、グリモールド・プレイス十二番地の暗い廊下と、ブラック家の家系図を織り込んだタペストリー、魔法省の中央ロビーと『魔法兄弟の泉』、ウィゼンガモットの大法廷、そして最下層に広がる『神秘部』——予言の間に並ぶ青いガラス球の棚、円形のヴェールの間、円形ホール、その他の研究室群である。神秘部を満たす青と、アンブリッジ執務室のピンク。この二色こそ、本作の美術がもっとも意図的に対比させたものだ。
アンブリッジが校長室を占拠していく場面では、ダンブルドアの暖かなオレンジとブラウンの内装の上に、彼女のピンクの皿や織物が一枚ずつ重ねられていく。最初はわずか数枚だったものが、あるショットでは部屋全体が淡いピンクに塗り替えられている。観客は台詞ではなく、皿の数と色の変化によって『国家がこの城を呑み込んだ』と理解するのだ。スチュアート・クレイグは、この『色の段階的な入れ替え』を本作の美術における最大の仕掛けだと語っている。
撮影と視覚効果
撮影監督を務めたのは、ポーランド出身のスワヴォミル・イジャック。クシシュトフ・キェシロフスキの『デカローグ』『トリコロール三部作 青』、リドリー・スコットの『ブラックホーク・ダウン』などで知られる名手である。本作を境に、シリーズの色温度は冷たい青と灰色へと大きく傾いていく。彼の手によって、ロンドンの夜の街路、冬を迎えたホグワーツの中庭、神秘部のガラスの棚、そしてヴェールの間にたたえられた青い光が、シリーズの新たな「暗さ」の基準を作り上げた。
視覚効果は、ダブル・ネガティブ、インダストリアル・ライト&マジック、フレームストア、シネサイトの四社が分担した。冒頭のディメンター襲撃の場面では、地下道の電灯のフィラメントが冷えていくマイクロ単位の描写から、ディメンターの黒い布のシミュレーションまでを徹底し、シリーズで最もリアルな「冷たさの視覚化」として完成させた。神秘部のガラスの棚が崩れ落ちる場面、ロビーでの彫像と水を使ったアクション、そしてヴェールの向こうへと落ちていくシリウスのスローモーション——いずれも本作を象徴するショットになっている。
音楽
音楽は、『賢者の石』『秘密の部屋』『アズカバンの囚人』のジョン・ウィリアムズ、『炎のゴブレット』のパトリック・ドイルに続き、本作からニコラス・フーパーがシリーズの作曲家を引き継いだ。フーパーは英国のテレビドラマやドキュメンタリーの音楽で知られる作曲家である。その音色は前任の二人より一段抑制が利き、室内楽的で、本作の冷たい色調とよく馴染んでいる。
彼が本作で手がけた『フォーセッツ・スピーチ/フォウケスの飛翔』『アンブリッジの行進曲』『ダンブルドアの軍隊』『ヴェールの間』『プロフェシー(予言)』は、いずれもホグワーツの旧来のテーマと衝突させることなく、本作の新たな主題を立ち上げてみせた。とりわけアンブリッジの行進曲は、ピチカートと木琴を多用した「可愛らしい不気味さ」をたたえ、彼女の人物像と画面に完璧に重なり合う。フーパーは続く『謎のプリンス』も担当することになる。
撮影スケジュールとロケ
本作の主要撮影は、2006年2月から12月にかけて英国のリーヴスデン・スタジオを拠点に行われた。冒頭でロンドンのミレニアム・ブリッジを実写の空撮でとらえた場面は、次作で描かれる崩落への伏線となっている。リトル・ウィンジングの地下道はバラフィールド・スタジオに新たなセットとして組まれた。グリモールド・プレイス十二番地の屋敷は、外観こそロンドンのクラパム・コモン近辺に実在する通りを参考にしたが、内部のセットはほぼ全面がリーヴスデンに建てられている。
禁じられた森の半人馬の場面は、英国南部での森林ロケと特殊撮影を組み合わせて撮影された。巨人グロウプの登場場面は、モーション・キャプチャーとミニチュアの合成によって実現している。神秘部のセットは本シリーズでも最大級の規模を誇り、円形のヴェールの間は天井までの高さが二十メートルを超えたと伝えられる。
編集と構成上の判断
編集を手がけたのはマーク・デイ。本作の編集はシリーズでも屈指の難仕事だった。原作小説の三分の二を削りながら、四つの縦糸——ハリーの怒り、アンブリッジの台頭、シリウスとの別れ、神秘部の予言——の重みを均等に保たねばならない。デイとイェーツは、原作で長く描かれるクィディッチ大会や聖マンゴ魔法疾患傷害病院、O.W.L.試験の場面を思いきって圧縮した。代わりに据えたのが、増えてゆく教育令の張り紙を畳みかける短いモンタージュ、D.A.の練習を積み重ねるカット、ハリーが連夜こなす罰書である。これらを編集のリズムそのもので見せていく方針だった。
とりわけ教育令のモンタージュは、原作の長尺を映画的に置き換えた最も鮮やかな一例といえる。アンブリッジが新しい教育令を読み上げる声、その紙が城の壁に張り出される音、生徒たちの足音——それらを重ね合わせ、わずか数分で「学校が国家の管理下に置かれていく過程」を観客の感情へ直接届けた。葬儀の場面も原作とは異なる。シリウスの遺体は最後まで物理的に戻ってこない。ヴェールの向こうへ消えたまま、観客に弔いの場すら与えないのだ。この編集判断こそ、本作を決定づけた選択の一つだろう。
32公開と興行
2007年7月11日に米国で公開され、翌12日に英国、7月20日には日本でも封切られた本作は、北米初週末で約7700万ドル、全世界初週末で約3億3300万ドルを記録した。最終的な全世界興行収入は約9億4200万ドルに達し、2007年公開作品の世界興行で年間第2位につけている(首位は『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』)。シリーズ本編八作のなかでも上位に食い込む成績だ。
批評面では、抑制のきいた演出と冷たい色調が一定の評価を受けた。一方で、原作の取捨選択の大胆さをめぐっては、原作読者の側から議論が起こった。だが、イメルダ・スタウントン演じるドローレス・アンブリッジの存在感、ゲイリー・オールドマンの最後の登場、そしてイヴァナ・リンチが初めて演じたルーナ・ラブグッドは、ほぼ全ての評者から肯定的に取り上げられた。人物造形に対する評価は高い。
受賞・ノミネートでは、第34回サターン賞でファンタジー映画賞やスタウントンの助演女優賞などにノミネートされ、英国国民映画賞(NMA)では最優秀作品賞を獲得した。2008年のティーン・チョイス・アワード(Teen Choice Awards)では複数部門を受賞し、ファン投票主導の各賞でも上位を占めている。
33批評・評価・文化的影響
本作は、シリーズの中盤に訪れる暗転を決定づけた一作である。第四作までの学園冒険ファンタジーは、本作で初めて国家と若者の対決を描く政治劇へと姿を変え、以後のシリーズの基調は完全にこちらへ傾いていく。本作以降のイェーツの語り口を、英国版『ハリー・ポッター』の最終形と評する批評家や作り手は少なくない。
ドローレス・アンブリッジという人物は、本作の公開以降、現代の英米文化のなかで「官僚的な悪」「微笑む全体主義」の象徴として広く引き合いに出されるようになった。観客を対象としたアンケートでは、近年の映画でもっとも嫌いな悪役としてジョーカーやヴォルデモートと並ぶ票を集めるという、珍しい現象まで起きている。原作の読者も未読の観客も、同じ強さで彼女を憎む――これこそ、本作の翻案が手にした最大の成功だろう。
ハリーが必要の部屋で同級生たちに守護霊の呪文を教える場面、彼自身の銀色の牡鹿が駆けめぐる場面、そしてフレッドとジョージの花火が大広間を突き抜けていく場面は、シリーズでもっとも引用されるイメージのいくつかとなった。ヴェールの向こうへ落ちていくシリウスのスローモーションもまた、シリーズが描く「沈黙の死」の代表例として、批評のなかで繰り返し論じられている。
舞台裏とトリビア
本作で長編デビューを果たした監督デヴィッド・イェーツは、それまで英国BBCの政治ドラマ『ステイト・オブ・プレイ』『シックス・トリヴェィル』など、テレビの世界で名を知られた演出家だった。ワーナー・ブラザースの抜擢は意外な人選と受け止められたが、結果として彼は本作のあと『謎のプリンス』『死の秘宝 PART1/PART2』、さらにスピンオフ『ファンタスティック・ビースト』シリーズの大半までを手がけ、ハリー・ポッター映画化を最も長く支えた立役者となった。
ハリーの左手の甲に浮かぶ赤い文字『I must not tell lies』は、撮影現場では特殊メイクで毎日描き直された。この傷跡は本作以降のシリーズでも完全には消えない設定とされ、続く『謎のプリンス』『死の秘宝 PART2』の一部のクローズアップでも、その薄い跡が画面の上で確認できる。
ルーナ・ラブグッド役のイヴァナ・リンチは、公開オーディションから起用された数少ない一人である。子どもの頃にJ.K.ローリングと手紙のやりとりを交わしていたという経歴の持ち主でもあった。本作での衣裳やアクセサリー(バターの蓋で作ったイヤリングなど)の一部には、リンチ本人が現場に持参した自作の品がそのまま採用されたと伝えられている。
シリウスの死は、ゲイリー・オールドマンが本作のために確保できる撮影日数の制約から、原作の場面に比べて短く編集された。オールドマン自身も『短く静かなほど効くだろう』とイェーツに賛同したと伝えられ、結果としてシリーズで最も短く、最も決定的な死の一つになった。彼はこの後も『鏡』『遺言の家屋敷』など、霊や記憶、建物の形を借りて再び姿を見せる。
本作の編集に参加したマーク・デイは、デヴィッド・イェーツとともに、本作以降のシリーズ最終四作すべての編集を担当し、シリーズ全体の語り口の連続性を支えた。撮影監督スワヴォミル・イジャックの参加は本作一本のみだが、彼が定めた『冷たい青と灰色』のトーンは、次作以降のブリュノ・デルボネル(『謎のプリンス』)、エドゥアルド・セラ(『死の秘宝』)へと受け継がれていった。
35テーマと解釈
中心にあるのは「情報統制と若者の声」というテーマである。本作で魔法省と日刊予言者新聞は、ヴォルデモートが復活したという事実を否定するため、十五歳の少年と老校長の証言を「個人的な政治闘争」へとすり替えて世に広めていく。マグル世界の読者にとっては、現代の権威主義国家やメディアのあり方を映した寓話として最も読み解きやすい一作だ。原作の出版と映画化が重なった2003年から2007年という時代背景、すなわちイラク戦争前後の英米における世論誘導とメディア批判の影と重ね合わせて論じる批評も少なくない。
もう一つの軸となるのが「先生と生徒の逆転」である。本作で正規の闇の魔術防衛術の教師はもはや何も教えず、生徒たちは秘密の部屋に集まり、自分たちのなかの一人を「先生」に立てる。D.A.の発足は、教師としての権威ではなく、対等な経験の共有に根ざした「学び」の場面だ。ハリーが、十一歳の頃に体験したスネイプの教室をそっくり裏返したような教師像を体現する瞬間は、本作で最も明るい数十秒であり、シリーズの「学校もの」としての本質を最も鮮やかに映し出す。
そして本作は、「不在の大人と、消えていく大人」というテーマを抱えている。ダンブルドアはハリーを意図的に避け、シリウスは家に閉じ込められたまま静かに死へと向かい、アンブリッジは「安全」を盾に生徒たちから判断する力を奪っていく。それでも残されたハリーたちは杖を取り、神秘部へと向かう。大人の保護がないなか、彼らは自らの選択の重みを引き受け始めるのだ。シリーズが「学園ファンタジー」から「大人の物語」へと橋を渡すその瞬間は、ヴェールの向こうへ消えるシリウスを石段から見送るハリーの顔のなかにある。
視聴の順番
初めて観るなら、本作はかならず前作『炎のゴブレット』の直後に観るのが正解だ。冒頭の懲戒尋問も、日刊予言者新聞の見出しが浴びせる嘲笑も、シリウスとの関係も、すべて前作の墓地の出来事と『セドリック・ディゴリーの死』を踏まえている。本作だけを先に観るのは、情報の面からどうにも勧めにくい。
終盤のシリウスの死、明かされる予言の全文、そして「私は選ばれし者かもしれない」というハリーの自覚は、続く『謎のプリンス』冒頭、「選ばれし者か」と報じる新聞の見出しへと切れ目なくつながっていく。本作を観た翌日に『謎のプリンス』を続けて観ることをおすすめしたい。
公開順は『炎のゴブレット』『不死鳥の騎士団』『謎のプリンス』『死の秘宝 PART1』『PART2』の流れで、時系列もこの並びと一致する。スピンオフの『ファンタスティック・ビースト』シリーズはダンブルドアの若き日を描く別軸の物語であり、本作とは独立して楽しんでかまわない。
37よくある質問
『あらすじだけ知りたい』場合は、リトル・ウィンジングのディメンター襲撃と懲戒尋問、グリモールド・プレイス十二番地、アンブリッジの台頭と教育令、ダンブルドア軍団の発足と必要の部屋、フレッドとジョージの花火、シリウスを救うために神秘部へ向かうこと、ヴェールの向こうへシリウスが落ちること、ダンブルドアとヴォルデモートの魔法省ロビーでの決闘、そして予言の本文——この九つを順に押さえれば全体像はつかめる。
『シリウスはどうやって死ぬのか』の答えは終盤で示される。ベラトリックス・レストレンジの呪文を胸に受け、神秘部のヴェールの間で『生死の境のヴェール』の向こうへ落ちて消える。遺体は戻らず、葬儀の場面も与えられない。これがシリーズで最も静かな『沈黙の死』である。
『予言の中身は何か』は本作の校長室の場面でダンブルドアからハリーに開示される。要旨は『闇の帝王の宿命の敵は、第七の月の終わりに生まれた者で、闇の帝王自身に印をつけられ、彼と対等の者に変えられる。どちらかが他方の手で死ぬまで、二人とも生きてはいけない』というもので、ヴォルデモートが対象として選んだのはハリーだった。
『ダンブルドアはなぜハリーを避けたのか』『R.A.B.とは誰か(次作以降)』『分霊箱は何個あるのか(次作以降)』——これらは本作の時点では未開示で、続く『謎のプリンス』『死の秘宝 PART1/PART2』で順に明かされる本作の伏線である。本作だけで判断を確定させず、続編まで観てから振り返ることを勧める。
38参考資料・脚注
作品名、キャラクター名、画像、各種権利は、それぞれの権利者に帰属する。公開年や興行成績、制作・配信の状況、外部からの評価は変動しうるため、視聴の前に公式情報および各データベースの最新の表示を確認してほしい。なお本記事の本文は、各種の公開情報をもとに、Anna Movies独自の日本語記事として構成したものである。