エピソード
最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」
世界の受け取り方は変えられる――碇シンジが自己否定を唯一の現実とするのをやめるまで
最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」は、第弐拾伍話「終わる世界」で解体された碇シンジの自己像を、自由、制約、他者との関係、別の可能性という順序で組み直す『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズの最終回です。シンジは、誰からも必要とされなければ自分には価値がないという考えを絶対の現実としてきました。しかし、現実の見え方は心の受け取り方によって変わり、いま嫌っている自分だけが唯一の自分ではないと知ります。最終場面の「おめでとう」は、悩みがすべて消えたという結果発表ではありません。自分を好きになれるかもしれない、他者のいる世界に自分も存在してよいかもしれないと認めた、最初の変化に対する祝福です。
ネタバレ:TVシリーズ最終話の結末、可能性として示される学園生活、最後の祝福、旧劇場版『Air/まごころを、君に』との違いを詳しく扱います。第弐拾伍話まで未視聴の場合はご注意ください。







最終話が決着させるのは事件の全容ではなく、シンジが自分を見る方法である
第弐拾伍話では、人類補完計画が始まり、シンジ、ミサト、アスカ、レイの心が検討されました。最終話はその続きとして、シンジに焦点を絞ります。使徒との戦いがどう終わったか、NERVの外で何が起きたかを説明するのではなく、他者の評価を借りなければ自分を保てない少年が、別の自己像を持てるかを試します。
公式の作品紹介も、本話をシンジの内面宇宙で不安と向き合い、さまざまな可能性を提示された末に一つの答えへ至る物語としてまとめています。ここでいう答えは、世界の秘密を解く設定上の解答ではありません。自分を嫌う考え方も一つの見方にすぎず、受け取り方を変えられるという認識です。
- 何の制約もない空間では、自分の形も位置も分からない。
- 一本の線が不自由を与えると同時に、立つ場所と輪郭を与える。
- 他者は自分を傷つける存在である一方、自分を認識するために必要な存在でもある。
- 関係と役割が変われば、現在とは違う自分も成り立つと学園世界が示す。
- シンジは自分を好きになれる可能性と、ここにいてよい可能性を初めて認める。
第弐拾伍話からの連続性――自己像を壊したあと、何を基準に組み直すのか
前話でシンジは、エヴァに乗ること、父に必要とされること、周囲から褒められることを、自分が存在してよい条件にしていたと突きつけられました。役に立たない自分には価値がないと考えるため、失敗や拒絶は単なる出来事ではなく、自分そのものの否定になります。
その仕組みを理解しても、すぐに別の生き方が手に入るわけではありません。長く使ってきた基準を取り除けば、何を選べばよいか分からない空白が残ります。最終話の白い空間は、他者の要求も自分の役割も消えた解放であると同時に、方向を決める手掛かりのない不安です。
したがって二話の関係は、同じ心理問答の反復ではありません。第弐拾伍話が、なぜ現在のシンジが自分を嫌うのかを分解し、最終話が、その考え方以外にも自分を成り立たせる見方があるかを実験します。解体のあとに再構成があるため、最後の祝福までの変化が成立します。
何もない自由――束縛をすべて消すと、選ぶ主体まで見失う
シンジは、上下も距離も障害もない空間へ置かれます。何をしてもよく、どこへ行ってもよいはずですが、基準となる地面がないため、進んでいるか止まっているかさえ分かりません。形を妨げるものがない自由は、同時に自分の形を確認する方法がない状態です。
彼はそれまで、不自由を苦痛として経験してきました。父の命令、パイロットの責任、他人の期待、傷つく関係から逃げたいと望みます。しかし、それらを完全に消した空間では、自分が何者かを決めてくれるものも消えます。束縛から離れることと、孤立して何も持たないことは同じではありません。
本話は自由を否定しているのではなく、自由には選択の基準と選ぶ主体が必要だと示します。何も与えられない状態を自由と呼ぶだけでは、人は自分を認識できません。自分の望みを作るためにも、他者や世界との具体的な関係が要ります。
一本の線が作る地面――制約は動きを妨げながら、立つ場所を与える
白い空間へ一本の線が引かれると、シンジには上下が生まれ、地面に立つ身体が与えられます。線は飛び回る自由を奪いますが、どこにいるかを認識させます。不自由が増えたのに、何もない空間より安心できるという逆説が、簡潔な画面で示されます。
身体、時間、学校、家庭、仕事、名前といった条件も、できることを限定します。その一方で、条件があるから選択に差が生まれ、行為に意味が生まれます。どの方向も同じなら選んだとは言えません。制約は人を閉じ込めるだけでなく、選択が成立する輪郭でもあります。
重要なのは、与えられた制約へ無条件に従うことではありません。シンジは他人の要求を自分の価値と混同してきました。本話が示すのは、境界や条件を持ちながら、その中で自分の受け取り方と行動を選び直す余地です。自由と制約を二者択一にせず、両者が互いを成立させると捉え直します。
他者が自分の形を知らせる――傷つける相手は、同時に境界を返す相手でもある
自分一人だけの世界では、比較も反応もありません。シンジは他者からの視線を恐れてきましたが、その視線がなければ、自分がどんな人間として振る舞っているかを知ることもできません。他者は自分とは違う意志を持つため、応答を通して自分の輪郭を返します。
ただし、他者が自分を定義するということは、相手の評価が常に正しいという意味ではありません。相手が見る自分は、関係の中で現れた一面です。シンジが見るミサトと、加持が見るミサトが同じでないように、一人の人物には関係の数だけ異なる像があります。
シンジの誤りは、他者を必要としたことではなく、想像した他者の拒絶を唯一の判決にしたことです。自分を嫌う人がいる可能性と、自分に価値がないという結論は一致しません。違う視点が存在すると認めれば、自分で作った一つの評価から距離を取れます。
現実は受け取り方で変わる――事実を消すのではなく、意味づけを唯一にしない
本話では、世界の見え方は心によって変わると説明されます。雨の日を憂鬱と感じることも、雨音を心地よいと感じることもできます。雨が降っているという事実は変わりませんが、その出来事が自分にとって何を意味するかは一つに固定されません。
この考えは、つらい現実を気の持ちようだけで無効にする主張ではありません。シンジが父に置き去りにされた経験、母を失ったこと、カヲルを死なせた罪悪感は消えません。それでも、その経験から『自分は誰にも愛されない』という永久の結論を作る必要はありません。
同じ出来事にも複数の意味があり得ると分かれば、現在の自己像は絶対ではなくなります。シンジは、自分を嫌う理由を現実そのものと考えていました。最終話は、事実と自己否定の解釈を分け、解釈を変えられる余地を取り戻します。
閉じた部屋と開いた世界――安全な殻は、苦痛と可能性を一緒に遮断する
他人がいなければ拒絶されず、失望させることもありません。シンジが閉じた場所を望むのは、弱さではなく、繰り返し傷ついた人間の防御です。しかし殻の内側では、拒絶と同時に、理解される可能性や、自分の知らない見方を受け取る機会もなくなります。
シリーズを通して語られたA.T.フィールドは、敵を遮る防壁であると同時に、個体を個体として保つ心の境界へ意味が広がりました。境界は接触を難しくしますが、別々の存在がいるからこそ、近づく行為に意味が生まれます。完全な一体化は孤独を消す一方、相手を相手として選ぶことも消します。
最終話の肯定は、殻を一度で壊して誰とでも分かり合うことではありません。傷つく可能性を承知したうえで、閉じる以外の選択もあると認めることです。他者との境界を持ったまま、言葉を返し、受け取り方を修正する小さな余地が回復します。
可能性の学園世界――両親のいる家庭と異なる関係が、別のシンジを可視化する
終盤には、ユイが母としてシンジを起こし、ゲンドウも家庭におり、アスカが幼なじみ、ミサトが担任教師、レイが転校生として現れる学園生活が描かれます。これまでの重い画面とは異なる、勢いのある会話とコミカルな作画で進みます。
この場面は、TV版の歴史が実は別世界へ分岐したという設定の確定ではありません。補完の内面で示された『あり得た自分』の一例です。両親との関係、学校での役割、アスカやレイとの出会い方が変われば、同じ名前と身体を持つシンジにも別の性格と日常が成り立ちます。
大切なのは、この学園生活が理想の正史だからではなく、現在の自己像が条件によって作られた一例だと示すことです。いまの自分が唯一の本質でないなら、未来の関係が変わることで、まだ知らない自分も生まれ得ます。可能性は過去を書き換えず、これからの見方を開きます。
なぜ学園場面はコミカルなのか――映像の調子まで変え、唯一の作品世界を揺らす
学園世界では、人物の口調、表情、間、構図が明るい日常喜劇へ切り替わります。同じ声と外見を持つ人物が、ジャンルの規則が変わるだけで別の印象になるため、性格が身体の内側に固定された不変のものではないと、説明ではなく体感で示します。
レイは無口で静かな少女としてではなく、遅刻して走り、シンジと衝突して強く反応する転校生になります。アスカとの関係も、パイロット同士の競争ではなく、長い時間を共有した幼なじみとして配置されます。役割が違えば、相手を見る方法も変わります。
この軽さは、それまでの痛みを笑って無効にするためではありません。重苦しい現在だけがエヴァンゲリオンの世界であり、自分たちはその役を永遠に演じるしかないという前提を壊します。画面の文法そのものが変わることが、可能性の証拠になります。
複数のシンジ――本当の自分は一枚ではなく、関係と選択の中で更新される
シンジは、自分の内側に一つの本質があり、それが臆病で嫌われる人間なのだと思っていました。けれど、ミサトといる自分、アスカといる自分、レイといる自分、初号機へ乗る自分は同じではありません。どれも偽物ではなく、関係の中で現れた自分です。
複数の自己像を認めることは、責任から逃げて好きな自分だけ選ぶことでもありません。カヲルを死なせた選択や、アスカを傷つけた言葉は残ります。しかし、一つの失敗を人格全体の判決へ拡大せず、次の関係で違う行動を選ぶ可能性を保てます。
自分は他者との関係で変わるため、完成して動かないものではありません。シンジが得たのは『自分は善い人間だ』という確信ではなく、『いま嫌っている自分以外にもなれる』という余白です。その余白が、自己否定だけで閉じた世界へ亀裂を入れます。
「僕は僕が嫌いだ」からの転換――嫌う感情と、嫌うしかないという思い込みを分ける
シンジは、自分が嫌いだという感情を繰り返します。逃げる、傷つける、相手の顔色をうかがう自分を見てきたため、その感情には具体的な経験があります。本話は、自己嫌悪を根拠のない気分として簡単に否定しません。
変化するのは、自分を嫌うことが唯一可能な見方だという思い込みです。他人が見るシンジは一様ではなく、世界の条件が変われば別のシンジも成立します。ならば本人も、自分について知っていることがすべてではありません。嫌いという現在の感情を持ちながら、将来も必ず嫌い続けるとは限りません。
ここで『好きになれるかもしれない』という可能性が生まれます。断言ではなく可能性である点が重要です。長い自己否定が一回の問答で消えたのではなく、自分を裁く結論を保留し、違う経験を受け取れる入口ができました。
「僕はここにいてもいいんだ」――存在の許可を、成果と他人の判定だけに預けない
シンジは、エヴァに乗れば必要とされ、必要とされればここにいてよいと考えてきました。その論理では、乗れないとき、失敗したとき、役割が終わったときに存在の資格まで失います。他人が与えた仕事は、自分の価値を感じる契機にはなっても、生存を許可する唯一の条件にはできません。
最終話でたどり着く言葉は、過去の行為がすべて正しかったという自己弁護ではありません。欠点や恐怖があっても、自分の受け取り方を変え、別の関係を作る可能性がある。その可能性を持つ者として、いまここに存在することを自分で許します。
また、この言葉を他者不要の宣言と読むべきではありません。シンジが自己を認識できたのは、他者の声と異なる視点を受け取ったからです。他者の承認だけへ依存する状態から、他者と関わりながら自分でも存在を引き受ける状態へ、重心が移ります。
青空へ割れる舞台――閉じた自己像が壊れ、他者のいる空間が戻る
シンジが自分の存在を許せる可能性に気づくと、それまで彼を囲んでいた舞台の壁が砕け、青空の下へ画面が開きます。破壊されるのは物理的なNERV施設ではなく、自己否定を唯一の世界としてきた閉鎖です。
舞台は、心を安全に検討できる場所であると同時に、他人の反応を自分で想定し続ける閉じた場所でもありました。壁の外へ出ると、実在する他者は本人の想像どおりに反応するとは限りません。だから不安は戻りますが、想像だけでは得られない応答も生まれます。
青空は、苦痛のない理想郷を保証しません。画面が閉じた内面から関係の空間へ移る視覚的な転換です。自分の像を一つに固定しないと決めた瞬間、世界も一つの意味へ閉じなくなります。
「おめでとう」の意味――治癒の完了ではなく、変われる可能性を認めた第一歩への祝福
最後に、ミサト、アスカ、レイ、ゲンドウ、ユイ、同級生、NERVの人々、ペンペンまでが現れ、シンジへ順に祝福を送ります。この配置は日常の一場面ではなく、シンジの人生へ関わった者たちが、内面の舞台で新しい認識へ言葉を返す場面です。
祝われているのは、すべての問題を解決したことではありません。シンジは、父との関係を修復したわけでも、死者を現実へ戻したわけでも、今後二度と逃げないと証明したわけでもありません。自分を嫌う以外の見方を認め、他者のいる世界へ開く可能性を選んだ。その小さく根本的な変化が祝われます。
また、『皆が認めたからシンジには価値がある』という元の依存へ戻った場面でもありません。祝福は変化の原因となる判決ではなく、シンジ自身が可能性を認めたあとに返される応答です。自己肯定と他者からの祝福が、どちらか一方ではなく、相互に支え合う形で置かれます。
ユイ、ゲンドウ、死者も並ぶ理由――物理的な再会ではなく、自己を形作った関係の総体
祝福の輪には、現実の時点で同じ場所へ集まれない人物も含まれます。ユイの身体はすでに失われ、カヲルもシンジの手で死に、前話はミサトとリツコの死を強く示唆しました。したがって、この場面を全員が生還して集合した出来事として扱うことはできません。
ここにいるのは、シンジの自己像を形作った人々です。愛された記憶、拒まれた恐怖、理解された経験、誤解、憧れ、罪悪感が、それぞれの人物の姿を取って現れます。死者との関係も、生きている者の内面から消えるわけではありません。
とりわけ両親から祝福を受けることは、シンジが長く求めた承認を表します。ただし、それだけでゲンドウの行為が許されたり、親子関係の歴史が修正されたりはしません。現実の父母と、シンジの中にある父母の像を分けることで、心理的な到達と物語上の事実を混同せずに読めます。
「全ての子供達に、おめでとう」――一人の主人公から、見ている側へ開く結語
人物の祝福のあと、作品は父へ、母へ、そしてすべての子供たちへ言葉を向けます。物語内のシンジだけを対象にした結末から、作品を受け取る側へ範囲が広がります。子供とは年齢だけでなく、親との関係や承認への欲求を抱えた人間全体へ開かれた呼びかけとして機能します。
この結語は、苦しむ人へ一律の解決法を命令する文ではありません。シンジと同じ答えを持てというより、自分について知っていることがすべてではなく、別の受け取り方を持てる可能性を祝います。答えの内容ではなく、答えを作り直せる主体がいることへの肯定です。
TVシリーズは、使徒を倒した英雄の勝利ではなく、自分を嫌い続けるしかないと思った少年が、その必然性を疑う瞬間で閉じます。個人の内面を扱いながら、最後に観客へ視線を返すことで、作品を見る行為も自己像を考える場へ変えます。
題名の「アイ」と英題――愛、I、自己への配慮を一つの問いへ重ねる
日本語題は、ハーラン・エリスンの短編集および同名短編で知られる題名『世界の中心で愛を叫んだけもの』を踏まえつつ、『愛』を片仮名の『アイ』へ変えています。表記によって、他者へ向ける愛だけでなく、英語の一人称 I、すなわち自己を叫ぶ意味が重なります。
シンジは、愛される保証を他者へ求めてきました。最終話では、他者から愛されるかという問いだけでなく、自分が自分をどう見るか、自分という存在を自分で引き受けられるかが中心になります。愛とIは別々の答えではなく、自己と他者の関係を両側から示します。
英題『Take care of yourself.』は、自分を大切にするよう促します。ただし、他人を捨てて自己利益だけを選ぶという意味ではありません。他者との関係を唯一の採点表にせず、自分の受け取り方にも責任を持つことです。第弐拾伍話の『Do you love me?』という問いから、自分自身へ向ける働きかけへ移っています。
TV最終話と『まごころを、君に』――片方が正解ではなく、内面と外的事件を異なる構成で描く
『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』の第26話「まごころを、君に」は、サードインパクト、人々の形が失われる過程、シンジが補完を拒否して他者のいる世界を望む選択を、身体と世界の変化を伴う映像で描きます。TV最終話は、同じ終局の問題を心の検討へ集中させます。
両作には、自己と他者の境界、孤独をなくす一体化、傷ついても別々の存在として戻る可能性という共通項があります。一方、登場人物の配置、シンジの言葉、結末の感触は同じではありません。映画の出来事をTV版の背後へそのまま置けば、全カットの意味が一対一で解けるわけでもありません。
庵野秀明は放送直後のインタビューで、当初の最終話企画を放棄した一方、実際に放送した第25・26話に満足していると述べています。旧劇場版が後に作られた事実を、TV版が無効になった証拠とはできません。内面を言葉と抽象映像で追う終幕と、外的事件を劇映画として追う終幕を比較すると、それぞれの焦点が明確になります。
解決したこと、解決していないこと――心理的な答えと設定上の空白を分ける
| 最終話で到達したこと | シンジが現在の自己像だけを絶対とせず、自分を好きになり、ここにいてよいと思える可能性を認める。 |
|---|---|
| 最終話が示した原理 | 制約と他者は自由を妨げるだけでなく、自己の形と選択の意味を作る。現実の受け取り方は一つではない。 |
| 最終話だけでは詳述しないこと | 補完を発動した物理的手順、NERV外で起きた事件、地上の人々の身体に生じた変化。 |
| 解決済みと断定できないこと | シンジの長期的な心の回復、父との和解、アスカやミサトとの現実の関係、死者の生還。 |
最終話への評価が割れやすい理由の一つは、求める解決の種類が違うことです。事件の因果と設定の全容を期待すれば、多くが画面外に残ります。一方、シンジがなぜ自分を嫌い、他者を必要としながら拒んだかという問いには、段階を踏んだ答えが示されます。
どちらの期待も作品を見るうえで自然ですが、空白がある領域を別の領域の失敗と混同しないことが重要です。TV版が答えた心理的な問いを確認し、その後に旧劇場版で外的事件と別の結末表現を比較すると、補完関係が理解しやすくなります。
制作と演出――庵野秀明の脚本を、庵野・摩砂雪・鶴巻和哉の絵コンテで抽象映像へ変える
武蔵野美術大学の映像作品資料では、脚本を庵野秀明、絵コンテを庵野秀明・摩砂雪・鶴巻和哉、演出を摩砂雪・鶴巻和哉が担当したと記録されています。音楽は鷺巣詩郎、撮影は黒田洋一、美術は加藤浩です。複数の演出家が、問答、抽象空間、学園喜劇、祝福を異なる画面の調子でつなぎます。
本話は、彩色された通常のセル画だけでなく、線画、文字、静止画、実写的な素材、描画途中に見える画面を使用します。自己像が固定された完成品ではなく、他者との関係で作られ直すものだという主題と、アニメーションが線、声、時間の組み合わせから成立することが重なります。
制作終盤に時間的制約があったことと、放送された表現に意図があることは両立します。庵野は当時、セル画だけを完成した表現とせず、絵コンテや線でも声が加われば人物として成立し得るという趣旨を語りました。制約の存在だけで画面を『未完成』と片づければ、形式が主題へ与えた効果を見落とします。
線、文字、声、沈黙――人物の身体を減らし、自己を作る部品を露出させる
画面から背景や色が消えると、観客は声、輪郭線、文字だけでもシンジを認識していると気づきます。人物は一枚の完成画だけで存在するのではなく、記憶された声、名前、姿勢、他者との関係によって認識されます。この構造が、自己像も複数の要素から作られるという話題を支えます。
反復される問いは、同じ言葉でも発言者と受け手を変えます。シンジを責める声が実在する他者の意見なのか、本人が内面化した拒絶なのかは一つに定まりません。重要なのは、相手の答えを確かめる前に、シンジが自分で最悪の返事を作っていたことです。
祝福の場面で拍手と声が重なると、それまで断片化していた人物たちが応答の共同体として戻ります。音は結論を押しつけるだけでなく、シンジの言葉が誰にも届かない独白から、返事を受け取る対話へ変わったことを知らせます。
よくある読み違い――夢オチ、全員生還、単純な自己肯定では捉えきれない
最終話を『全部シンジの夢だった』とまとめるのは不正確です。第弐拾伍話で人類補完計画の開始が明示され、本話はその内面過程を続けています。通常の物理空間ではありませんが、シリーズの事件と無関係な夢を見て目覚める構成でもありません。
祝福の輪に死者や離れた人物がいるため、全員が現実に生還した集合場面とも言えません。心理空間では、シンジの自己を形作った関係が人物の姿で現れます。作品内の生死や外的事件を確認するには、TV終盤の断片と旧劇場版を分けて検討する必要があります。
また、結論は『自信を持てば何でも解決する』という励ましではありません。過去の事実と痛みは残り、他者との関係には拒絶の危険があります。それでも、自己否定だけを唯一の現実にせず、違う受け取り方を試せるという限定的で実践的な変化です。
TVシリーズの終点としてどう見るか――全26話を完走してから旧劇場版と比較する
最終話は、TVシリーズ全26話の正式な終幕です。公式映像商品も第弐拾伍話と最終話を第8巻へ収録し、劇場版第25話・第26話とは別の作品として扱います。最初から劇場版だけを『本当の結末』として置くと、TV版が積み上げた自己認識の論理を見落とします。
初見では第壱話から最終話まで放送順で見て、シンジが他者の評価へ自分の価値を預けていく過程を追うのが適しています。その後に『DEATH(TRUE)²』と『Air/まごころを、君に』を見ると、TV版で画面外に置かれたNERV侵攻と補完の外的現象、異なる選択の表現を比較できます。
『REVIVAL OF EVANGELION』の上映形態や各映像商品の収録順を確認すると、作品側がTV最終二話と旧劇場版を併存させてきたことも分かります。どちらか一方で他方を消すのではなく、内面、外界、映像形式の違いを読むことが、終幕の情報量を最も多く受け取る見方です。
最終話のよくある疑問
最終話はシンジの夢ですか
単なる夢ではありません。前話で開始した人類補完計画の内面過程として、自己と他者の境界、自由、自己像を検討する心理空間です。
学園生活の場面は別の世界線ですか
TV本話が確定した別年表ではなく、関係と役割が違えば別の自分も成り立つと示す可能性の例です。後発作品の学園設定と同一の連続性だと自動的に扱うことはできません。
最後の『おめでとう』で何が解決したのですか
シンジが、自分を嫌う現在の見方だけを絶対とせず、自分を好きになり、ここにいてよいと思える可能性を認めました。現実の事件や対人関係がすべて解決したわけではありません。
全員が生き返った場面ですか
いいえ。死者を含む人物が同時に並ぶため、物理的な集合ではなく、シンジの自己を形作った関係が内面の舞台へ現れた場面として読む必要があります。
TV最終話と旧劇場版はどちらが正しい結末ですか
片方だけを正しい結末とする公式上の扱いではありません。TV版は補完の内面と自己認識を、旧劇場版は外的事件と身体を伴う補完を中心にした、焦点と構成の異なる終幕です。
題名の『アイ』は愛ですか、Iですか
片仮名表記により、愛と英語一人称のIを重ねて読めます。他者から愛されたい問いと、自分自身をどう引き受けるかという問いが、本話では一つに結びつきます。
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