インクレディブル・ハルクは、2008年公開のアメリカのスーパーヒーロー映画である。ガンマ線照射事故で怒りに応じて緑色の巨人ハルクへ変貌する体を抱えた元科学者ブルース・バナーが、治療法を求めて逃亡生活を送りながら故郷へ戻り、彼を兵器化しようとする軍や、その血から生み出されたもう一匹の怪物アボミネーションと対決する。
マーベル・スタジオがマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の第2作として製作し、ルイ・レテリエが監督、エドワード・ノートンが主演を務めた。
00概要
『インクレディブル・ハルク』(The Incredible Hulk)は、ルイ・レテリエ監督、ザック・ペン脚本によるアメリカのスーパーヒーロー映画である。マーベル・スタジオが自社製作し、ユニバーサル・ピクチャーズが配給した、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)通算第2作にあたる。米国公開は2008年6月13日。『アイアンマン』(同年5月2日米国公開)からわずか5週間後の封切りであり、フェーズ1の二作目として、新生マーベル・スタジオの底力を観客と業界に示す役目を担った一本だ。
原作は、スタン・リーとジャック・カービーが1962年に『The Incredible Hulk #1』で世に送り出したヒーロー、ハルク(ブルース・バナー博士)である。本作はそのオリジン譚をフラッシュバックではなくタイトル・シークエンスへと圧縮し、本編冒頭からすでに「ガンマ事故から数か月、潜伏する科学者」の姿を映し出す。シリーズ第二作ならではの大胆な構成だ。2003年のアン・リー監督『ハルク』をリブートした続編という性格を実質的に帯びつつ、物語上もキャスト上もそのつながりは明示せず、独立した新作として楽しめるよう設計されている。
主要キャストはエドワード・ノートン(ブルース・バナー博士/ハルク)、リヴ・タイラー(エリザベス・“ベティ”・ロス)、ティム・ロス(エミル・ブロンスキー/アボミネーション)、ウィリアム・ハート(サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍)、ティム・ブレイク・ネルソン(サミュエル・スターンズ/“ミスター・ブルー”)、タイ・バレル(レナード・サムソン博士)。ポストクレジットには、サプライズとしてロバート・ダウニー・Jr.がトニー・スタークとして登場し、アイアンマンとハルクの世界をつなぐ最初の橋を架ける。さらにスタン・リーと、1977年版テレビシリーズでハルクを演じたルー・フェリグノがカメオ出演している。
本記事は、結末、ハーレムでのアボミネーション戦、ベラ・クーラのキャビンでブルースが自らハルク化を始める最終ショット、そしてポストクレジットでトニー・スタークが「アベンジャーズ計画」を口にする場面まで、全編のネタバレを前提に構成している。物語の驚きを取っておきたい読者は、鑑賞後に戻ってきてほしい。
主要データ
- 原題
- The Incredible Hulk
- 監督
- ルイ・レテリエ
- 脚本
- ザック・ペン
- 原作
- マーベル・コミック(スタン・リー/ジャック・カービー、1962)
- 音楽
- クレイグ・アームストロング
- 撮影
- ピーター・メンジス・ジュニア
- 米国公開
- 2008年6月13日
- 上映時間
- 112分
- ジャンル
- スーパーヒーロー、SFアクション、追跡スリラー
- シリーズ区分
- MCUフェーズ1・第2作/インフィニティ・サーガ
01あらすじ
以下に紹介するのは、結末、ハーレムでの決戦、そしてポストクレジット・シーンまでを含む全編のあらすじである。タイトル・シークエンスで描かれるガンマ実験事故の経緯にはじまり、ブラジル・リオデジャネイロ郊外のロシーニャでの潜伏、瓶詰工場を狙ったブロンスキー隊の襲撃と最初のハルクへの覚醒、グアテマラを経由しての帰還、カルバー大学でのベティとの再会と二度目の覚醒、サミュエル・スターンズとの接触、ブロンスキーのアボミネーション化、そしてハーレムでの決戦へと続く。最後はブルースが大学時代の助手ベラ・クーラのもとで、自ら変身へと踏み込む結末まで、順を追って整理していく。
タイトル・シークエンス
本作に本格的なオリジン譚のフラッシュバックはない。代わりに、新聞紙面、実験ログ、監視カメラの映像、赤色警報のフラッシュを矢継ぎ早につないだタイトル・シークエンスが、観客に必要な前提を一気に手渡す。サディアス・ロス将軍(ウィリアム・ハート)の指揮する米陸軍の「バイオフォース・エンハンスメント・プロジェクト」——第二次世界大戦期の超人兵士計画を現代に受け継ぐ——のもと、若き科学者ブルース・バナー博士(エドワード・ノートン)はガンマ線照射の被験体となる。
実験は失敗に終わる。意識を失ったブルースは制御の利かない怪物へと変身し、婚約者であり共同研究者でもあるベティ・ロス(リヴ・タイラー)を傷つけ、研究施設を破壊して逃亡する。タイトルの下に映る手紙、追跡されるパスポート、各国の入国スタンプ、心拍計の数値、書きかけのメモ——観客はこのわずか数十秒で、彼が「自分の中の獣」を抑えるために生活のすべてを変えてしまったことを悟る。
シークエンスの最後に映し出されるのは、ブラジル・リオデジャネイロ郊外の貧民街ロシーニャを見下ろす俯瞰と、その路地裏で目を覚ますブルースの顔だ。手首には心拍計、机の上には脈拍を記録するノート、壁にはポルトガル語の挨拶を書き留めた紙。そして画面の右下には、変身せずに過ごした日数を刻むカウンター——「無事故 158日」。
リオデジャネイロ
ブルースは身分を偽り、ロシーニャにあるソフトドリンクの瓶詰工場で、清掃と整備を担う工員として働いている。同時に、姿を見たことのない協力者「ミスター・ブルー(Mr. Blue)」とインターネット越しに暗号化メールでやり取りし、自らの体内に潜むガンマ線変異の解析と、もしあるなら治療法の手がかりを探し続けている。かたわらでブラジルの太極拳・呼吸法の老師に師事し、「心拍を上げない技術」を学ぶ。怒りの予兆を呼吸で散らす訓練が、彼の日課である。
工場の若い同僚マルティナが、セクハラ気味の上司に絡まれかけた日のことだ。ブルースは英語で声を抑えた警告を残し、その場を立ち去ろうとする。だが相手は、通じない英語のまま挑発をやめない。心拍計の数値が上限に近づいていく。ブルースは目を逸らして深く息を吸い、警告を二度繰り返したうえで、足早に外へ出ていく——この一連の場面が、彼が身につけつつある「怒りを処理する技術」の典型例として、序盤に提示される。
ある日、瓶詰ラインの清掃中に、ブルースは右手の中指を切ってしまう。一滴の血が、出荷を間近に控えたソーダ瓶の一つに落ちる。本人はそれに気づかず、瓶は流通網を辿って米国へと渡っていく。やがて米国で、その瓶のソーダを冷蔵庫から取り出して飲んだ初老の男(カメオ出演のスタン・リー)が、ガンマ線で変質した血液を体内に取り込み、体調を崩して救急搬送される。事故は地方紙の小さな記事になり、ハーレム上空の軍衛星による監視を通じて、ロス将軍のチームのもとへ辿り着く——逃亡したブルースの居所が、ついに割れる。
瓶詰工場の襲撃と最初の変身
ロス将軍は、ブルース・バナーの身柄確保任務の指揮を、英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)出身でアメリカ陸軍に出向中のエミル・ブロンスキー大尉(ティム・ロス)に託す。長年最前線で戦ってきたブロンスキーだが、加齢とともに衰えゆく自身の身体に苛立ちを募らせている。そんな彼に、ロスがそっと囁く。「もし君が三十歳の身体でこの仕事をしていたら何ができるか考えてみろ」——その瞬間、彼の心に別の選択肢が芽生える。
夜のロシーニャ。ブロンスキー隊は瓶詰工場と周辺の路地を包囲し、ブルースの暮らす長屋風アパートへ突入する。警告音を聞きつけたブルースは、必死に脈拍を落ち着けながら屋根伝いに逃げ、工場の機械室から倉庫、冷蔵セクションを抜けて細い路地へ駆け込む。屋上を伝い、ファヴェーラの斜面を滑り降り、上下に折れ曲がる無数の階段を音もなく走り抜ける。このパルクール的な追跡劇が、本作最初のアクション・シークエンスを形づくる。
ブロンスキーは一度ブルースに肉薄するが、心拍が限界を越えたブルースは、工場の搬入口で初めて巨大な影として画面に姿を現す。倉庫の薄暗がりのなか、段ボールが弾け飛び、フォークリフトが宙に跳ね上げられ、緑色の巨体——ハルク——が大尉の隊を片端から薙ぎ払う。ブロンスキー自身も至近距離で殴り飛ばされて床に叩きつけられ、骨にひびが入る。やがてハルクは工場の壁を突き破り、斜面の闇へと姿を消す。観客が彼の本物の輪郭を目にするのは、この瞬間だ。
この夜の襲撃は、ブロンスキーの内側に決定的な傷を残す。病院のベッドで一晩中、彼は自分を吹き飛ばした緑色の影を反芻する——「あの力が欲しい」と。彼の物語の歯車は、この夜を境に、本作のクライマックスへ向けてゆっくりと、しかし確実に回り始める。
帰国
リオを脱出したブルースは、徒歩でグアテマラ国境を越え、メキシコ湾沿いを北上してアメリカ南東部へと戻っていく。雨に濡れた荷台に揺られながら、ラップトップの暗号メールでミスター・ブルーに「米国へ戻る。サンプルを持って会いに行く」と告げる。返信は短い。「ニューヨークで待つ。だが、もし症状が出たら、絶対に都市部に入るな」。
ブルースが目指すのは、故郷ヴァージニア州だ。事故を起こしたカルバー大学のキャンパス、そしてベティ・ロスのもとである。深夜、雨に濡れたまま大学の医療棟の階段に腰を下ろし、ベティが講師として勤める棟の灯りを見上げる。ベティはすでに精神医療の専門家レナード・サムソン博士(タイ・バレル)と新たな関係を歩みはじめていた。それでも、ブルースの姿を目にした瞬間、彼女のなかの何かが旧い引力に引き戻されていく。
その夜、ブルースはサムソンが用意した書斎の長椅子で眠る。翌朝、サムソンは複雑な面持ちで「ベティのためにも、君は自分の身柄について正しい判断をすべきだ」と告げた。ブルースは静かにうなずく。だがベティは、その忠告に背いて、ブルースとともにキャンパスを離れる準備を進めはじめる。彼女は研究室の金庫から事故当夜のガンマ照射データの一部を取り出し、外付けドライブへと移す。本作のクライマックスでスターンズに渡される、唯一無二のサンプルである。
カルバー大学決戦
ベティとの再会で、ブルースの警戒はわずかに弛んでいた。その隙を突くように、ロス将軍の二度目の襲撃が一気に防壁を破る。陽が高く昇った昼下がり、キャンパスの中庭で、ブロンスキー率いる特殊部隊が四方からブルースとベティを包囲した。だが、今度のブロンスキーは以前とは違う。リオの夜の屈辱を味わって以降、彼はロス将軍に直訴し、第二次大戦期の超人兵士計画から派生して開発された「弱体化版スーパー・ソルジャー血清」の被験者を自ら志願していた。瞳の奥には銀色の光が宿り、骨の強度は跳ね上がり、反射神経はもはや人類の規格を超えている。
拘束された瞬間、ブルースの心拍は爆発的に跳ね上がる。二度目のハルクへの変身を遂げた彼は、軍用ハンヴィーも装甲車も放水砲も、対戦車ミサイルの発射台すら、まるで遊具のように振り回す。遠方のヘリコプターから指揮を執るロス将軍。だが、自ら育てた怪物が、自分の娘の前で吠え猛るその瞬間、彼は思わず視線を逸らさずにはいられない。
血清に酔ったブロンスキーが、ハルクの前に立ち塞がる。「もう怖くない」と言い放ち、両手にナイフを構えた——次の瞬間、ハルクの蹴り上げが彼を中庭の樹木へと叩きつけ、背骨と複数の肋骨を粉砕する。呼吸器を装着されたまま病院へ搬送された彼は、長い昏睡へと落ちていく。この惨敗の屈辱を抱えた彼が、終盤で何を選ぶのか——観客はすでにそれを予感している。
ハルクはベティを抱えたまま、森のなかへと跳び去る。娘を奪われたロス将軍は、父として眠れぬ一夜を過ごし、翌朝、空からの捜索を再開する。雨の山小屋で目を覚ましたブルースは、自分の腕の中でベティが眠っていることに気づく。寒さに震える彼女に、彼はそっと毛布をかけ直す——本作のなかで最も静かで、最も人間的な数分間である。
ミスター・ブルー登場
山を越えてニューヨークへと向かう道中、ブルースとベティはピザ屋の電話やインターネットカフェを乗り継ぎ、ついにミスター・ブルー本人の居場所を突き止める。マンハッタン市内の医療研究機関、グレイバーン大学。その細胞生物学研究所の地下で働く准教授こそ、サミュエル・スターンズ博士(ティム・ブレイク・ネルソン)だ。眼鏡の奥で瞳が絶えず躍り、過剰なまでに饒舌な天才。彼が「ミスター・ブルー」である。
ブルースがこの数か月、リオから少量ずつ送り続けてきた自身のガンマ変異血液サンプルを、スターンズは研究室の冷蔵庫に山と積み上げていた。彼いわく、ブルースの血液は人類がいまだ目にしたことのない可塑性を備え、未知の応用の可能性に開かれているという。スターンズは「治療」のため、ブルースのガンマ変異を一時的に抑え込み中和する治療プロトコルを設計していた。ベティが大学から持ち出した照射データこそ、そのプロトコルを完成させる最後の鍵だった。
ブルースは試験的に、治療プロトコルの第一段階を受ける。机に縛り付けられ、薬剤の効きを確かめるため意図的に心拍を上げていく工程だ。ベティが「私の前で怒ってみせて」と促し、彼が叫び始めた瞬間、皮膚に緑の波が走る。だが薬剤が全身に行き渡ると波は治まり、ブルースは数か月ぶりに「人間の姿のまま心拍が落ちていく」という体験を得る。短い沈黙が一拍流れたのち、研究室の三人は初めて笑顔を交わすのだった。
だがスターンズには、ブルースに伝えていない事実があった。彼は治療に本気で取り組む一方で、ブルースから集めた血液サンプルを使い、より持続的に「ブルースのような身体」を生み出す合成血清の研究も並行して進めていたのだ。純粋な科学的好奇心ゆえに、彼自身その一線を越えつつあった——その判断こそが、本作のクライマックスを決定づける。
ブロンスキーの第二改造とアボミネーショ…
病院のベッドから息を吹き返したブロンスキーは、ロス将軍にふたたび直訴する。「あの“化け物”と渡り合える身体をくれ」。ロス将軍はためらいながらも、ブルース捕獲のため、ブロンスキーをグレイバーン大学の研究室へと案内する。スターンズが治療を終え、ブルースの心拍がようやく落ち着いた——その直後の研究室の扉を、銃を構えたブロンスキーが押し開ける。
ブロンスキーはブルースとベティを縛り上げ、スターンズに詰め寄る。自分の身体にもブルースと同じ「変身」を施せ、と。スターンズはためらった。「あなたの身体はすでにスーパー・ソルジャー血清で改造されている。そこへガンマを上乗せすれば、何が生まれるか分からない。化け物だ、化け物が出てくる……」。だがブロンスキーは銃口を彼の額に押し当て、こう言い放つ。「化け物で構わない」。
スターンズはブロンスキーをガラスの円柱に座らせ、ブルースの血液から精製したガンマ薬剤を首筋に注入する。注入された途端、ブロンスキーの背骨が突き上がり、額の骨は四本の角となって伸び、顎は裂け、皮膚は鋭い鎧のような質感を帯びていく。原作で長く愛されてきた宿敵「アボミネーション」が、巨大な怪物となって研究室の壁を突き破り、夜のマンハッタンへと躍り出る。
その混乱のさなか、作業台に置かれていたガンマ変異血液の試薬瓶が倒れ、わずかな量がスターンズ自身の額の傷に流れ込む。皮膚はその瞬間から不気味に膨らみ、緑色を帯びはじめる——原作で彼が辿る運命、すなわち頭脳が異常に肥大化する悪役「リーダー(The Leader)」誕生への伏線が、ここに静かに置かれるのだ。
ハーレム決戦
アボミネーションはマンハッタンを北上し、ハーレムの大通りで車を投げ飛ばし、街路樹をなぎ倒しながら、画面いっぱいに破壊をまき散らす。ロス将軍はベティとブルースをヘリコプターに収容したまま現場へ急行するが、自らの手で生み出したもう一匹の怪物を前に、もはや正規軍だけでは止められないと悟る。
縛られたままのブルースが、ロス将軍に向かって叫ぶ——「私を落としてくれ。落としてくれれば、もう一度あれをやれる。私はあなた方が必要とするものになる」。長い逡巡の末、ロスはヘリコプターの後部扉を開ける。ブルースはニューヨークの夜景に向かって、自らの意思で身を投げる——本編を通じて、彼が一度も自発的にハルクへの変身を選んでこなかったことに、観客はここで気づく。地面が迫った瞬間、その身体は緑の閃光に包まれ、ハルクとなってアスファルトに降り立つ。
ハルクとアボミネーションのハーレム決戦は、本作最大のスペクタクルとして約12分にわたって繰り広げられる。崩れる消防車、引き抜かれる街灯、片手で半分に折ったパトカーで作る即席の鎖鎌、火を噴くガスパイプの炎を素手で受け止める対峙——両者のスケールはそれ以前のスーパーヒーロー映画にとって異例の大きさで、観客は街そのものが揺らぐ感覚を味わう。
決着は、アボミネーションがベティに迫った瞬間に訪れる。ハルクは折り取った警察車両の鉄鎖をアボミネーションの首に巻きつけ、絞め上げる。あと数秒で首を折りきる——そこへベティの「ブルース!」という叫びが届く。凶悪な瞳のままハルクは動きを止め、ゆっくりと鎖を緩めて、生かすほうを選ぶ。ベティを腕に抱え上げ、ロス将軍と長い視線を交わすと、街の闇のなかへ跳び去っていく。
ベラ・クーラ
本編のラスト数分、舞台はカナダ・ブリティッシュコロンビア州ベラ・クーラ、森の奥深くに建つキャビンへと移る。雪をかぶった針葉樹林のなか、ブルースは木造の小屋でじっと深い静坐を続けている。指先で測る脈は安定し、ノートに描かれる脈拍グラフは穏やかな水平線を保つ。傍らには、リオの瓶詰工場で買ったのと同じブランドのソーダ瓶が、ただ一本だけ置かれている。
彼は静かに目を閉じ、意図して心拍を上げていく。グラフがせり上がり、画面に映る瞳孔がゆっくりと緑色へ変わる。今回のハルクの咆哮は、激情というより長い呼吸のように響く——カルバー大学で愛する人を傷つけた怪物から、ハーレムで愛する人の声に従い力を緩めた知性体へ、そしてついに、自らの意思で「もう一度」獣の側へ降りていける男へ。彼はそこまで辿り着いたのだ。
ベラ・クーラのキャビンには、電話線も電灯も通っていない。今後、自分の身体とどう折り合いをつけ、ロス将軍やスターンズ、アボミネーションの行方とどう向き合っていくのか——それは本作では明かされない。彼はただ、自分のなかに棲む獣に向かって、初めて握手を試みようとしている。
ポストクレジット
本編のエンドロールが流れ終わる前、画面はアメリカ西海岸の薄暗いバーへと切り替わる。カウンターでウィスキーを呷っているのは、軍服の上着を脱ぎ、髭の伸びた憔悴の表情のロス将軍だ。その隣の高椅子に、上品なスーツをまとった男が腰を下ろす。トニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)である。
トニーは前置きなしに切り出す。「あなたの問題(プロブレム)について耳にしたよ」。ロス将軍は嫌悪を隠さない口調で応じる。「君が抱えている問題こそ、上司に頼んだほうがいい問題のはずだ」。トニーは答える。「もしも“私たちはチームを組もうとしている”と言ったら、どう思う?(What if I told you we were putting a team together?)」。ロスの視線が、ここで初めて隣の男にしっかりと向く。
この僅か40秒の場面が、本作のポストクレジットとして果たす機能は決定的に大きい。『アイアンマン』のポストクレジットで、サミュエル・L・ジャクソン演じるニック・フューリーが「アベンジャーズ計画」を口にした瞬間に始まった、後年の集合篇へと向かう長大な物語。本作のポストクレジットは、二つの単独作の世界が「同じ現実」であることを、観客に初めて公式に伝える場面となる。商業的には『アイアンマン』の影に隠れた一作だが、MCUの世界線を初めて編んだ作品の一つでもあるのだ。
登場要素
本作に登場・言及される主要な要素を整理しておこう。冷戦期の超人兵士計画を現代によみがえらせた前史、ハルク誕生の物語で導入されたガンマ照射装置、そしてサミュエル・スターンズの研究室に並ぶ試薬瓶——いずれも後年のMCU作品に反復し、呼応していく固有名詞である。ここに注目しておきたい。
- ブルース・バナー博士/ハルク
- エリザベス・“ベティ”・ロス(細胞生物学者)
- サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍
- エミル・ブロンスキー大尉(後のアボミネーション)
- サミュエル・スターンズ博士(“ミスター・ブルー”、リーダーの萌芽)
- レナード・サムソン博士(ベティの新しいパートナー)
- エミル・ブロンスキー/アボミネーション
- サンダーボルト・ロス将軍(敵対的軍部上層部の象徴)
- サミュエル・スターンズ(科学的好奇心の暴走)
- ロシーニャの太極拳老師(呼吸法の師)
- 瓶詰工場の同僚マルティナ
- イノセンス(リオでブルースを匿う名もなき隣人たち)
- グレイバーン大学の研究室スタッフ
- 米陸軍バイオフォース・エンハンスメント・プロジェクト(超人兵士計画の現代版)
- 米陸軍特殊作戦部隊
- 英陸軍特殊空挺部隊(SAS/ブロンスキーの出身部隊)
- グレイバーン大学細胞生物学研究所
- カルバー大学(事故と再会の舞台)
- リオデジャネイロ・ロシーニャ(潜伏地)
- ソフトドリンク瓶詰工場(最初のハルク覚醒地)
- グアテマラ国境地帯
- カルバー大学キャンパス(事故と二度目の覚醒地)
- ヴァージニア州の雨の山小屋
- グレイバーン大学細胞生物学研究所(アボミネーション誕生地)
- ハーレム大通り(決戦地)
- ベラ・クーラの森奥のキャビン(結末地)
- 心拍計付きリストデバイス
- ガンマ線照射装置(カルバー大学の事故元)
- 弱体化版スーパー・ソルジャー血清
- ブルース・バナーのガンマ変異血液サンプル
- 暗号化メール経由のミスター・ブルー連絡網
- ソフトドリンクの瓶(汚染拡散の媒介)
- 対戦車ミサイル発射台(カルバー大決戦で運用)
- 警察用大型鉄鎖(ハーレム決戦で即席武器化)
- ガンマ変異による超人化
- 怒気・心拍上昇による変身トリガー
- 呼吸法による変身回避
- スーパー・ソルジャー血清との重ね合わせの危険性
- アボミネーション化(不可逆な歪み)
- “リーダー”誕生の萌芽(頭脳の異常肥大化)
- 意志的変身(結末でブルースが獲得する境地)
- トニー・スタークによるロス将軍訪問
- 「アベンジャーズ計画」への直接的言及
- MCU第1作『アイアンマン』との明示的接続
13主要登場人物
本作の登場人物の描き方は、原作やテレビシリーズ、そして2003年版で繰り返し描かれてきた「孤独な逃亡者」という像を受け継いでいる。ただし、それを現代的なバイオハザード・スリラーの枠組みのなかへ置き直した点に特徴がある。それぞれの選択は単純な善悪では割り切れない。互いの傲慢や後悔、そして恋情こそが、物語を突き動かしていく。
ブルース・バナー博士/ハルク
本作のブルースは、天才科学者でありながら、自らの意志を裏切る身体を抱えた男として描かれる。リオの瓶詰工場で高ぶる心拍を抑え、ポルトガル語で「No me jodas(揉めごとを起こすな)」と諭す場面。雨の山小屋でベティに毛布をかけ直す場面。ヘリから「私を落としてくれ」と叫ぶ場面。そしてベラ・クーラの森で、自ら緑の瞳を選び取る最後のショット——。いずれの場面も、彼が「自分の中に潜む獣を遠ざけるのではなく、その獣と関係を結ぶ」ほうへ、少しずつ歩を進めていることを物語っている。
エドワード・ノートンは本作で主演を務めるだけでなく、現場での脚本加筆にも深く関わった。その関与は、ブルースの内省的な独白、太極拳の師との静かなやりとり、ベティとの再会場面のテンポなど、本作がたたえる「静けさ」の側面に色濃く表れている。公開後、ノートンとマーベル・スタジオは編集方針をめぐって対立し、続編や集合篇への再登板は実現しなかったが、彼が刻んだ演技の細部は今なお高く評価されている。
後年、ブルース/ハルク役は『アベンジャーズ』(2012)以降、マーク・ラファロが引き継ぐ。本作は実写MCUにおける「ノートン版バナー」唯一の主演作であり、その意味でも独立した記憶として愛され続けている。
エリザベス・“ベティ”・ロス
本作のベティは、原作やテレビシリーズで繰り返し描かれてきた「ハルクの精神的な拠り所」という像を、現代の自立した研究者へと更新した人物として登場する。父であるロス将軍との緊張、サムソン博士との新たな関係、そしてブルースとの再燃する旧情——その三角形のなかで、彼女は終始、自分の判断で動き続ける。
リヴ・タイラーの演技は、台詞を抑えた瞬間にこそ強く効いてくる。再会の夜、雨に濡れたブルースの肩を抱き寄せる短い仕草、雷雨の山小屋で眠るブルースを見守る静かなカット、ハーレム決戦の最終局面で「ブルース!」と叫び、ハルクの腕を止める一声——いずれも本作の感情の振り子を決定づける場面である。
後年のMCUでは、ベティ役は実写としては本作以降長く不在のままだったが、Disney+のドラマシリーズ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)の終盤付近で名前が言及され、世界線へのつながりが静かに保たれた。
サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍
ロス将軍は本作で、単なる軍部の悪役ではない。「自らが生み出した怪物に追われる父親」として描かれる。娘の婚約者を実験台にし、事故を引き起こした男。それゆえ娘とは長く疎遠になった。バーでウィスキーを呷る彼の最後の表情に、観客が見るのは勝利ではなく、敗北と疲弊である。
ウィリアム・ハート(1950–2022)は本作で、硬質な低音と疲れた瞳でロスを演じた。後年の『シビル・ウォー』(2016)、『ブラック・ウィドウ』(2021)、Disney+ドラマ『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』(2021)まで、同じ役を演じ続けている。彼の死後は、本作と同一人物としてのロス役を、ハリソン・フォードが『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)以降に引き継いだ。
娘の安全のために怪物を組み立て、その結果、娘を二度失う——。本作で描かれるロスの選択は、MCU全体を通じてロス将軍という人物の業を規定する起点となる。
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エミル・ブロンスキー/アボミネーション
本作のブロンスキーは、老いに苛立つ最前線の兵士という素朴な男として登場する。だが自らの身体に薬剤を上書きし続けるうちに、やがて人間としての輪郭そのものを失っていく。リオの瓶詰工場で味わった屈辱、カルバー大学での骨折、グレイバーン大学のガラス円柱——三つの転機はいずれも「あの力が欲しい」という単純な渇望から生まれている。
ティム・ロスの低い声と細身の体躯が、薬剤で膨れ上がるアボミネーションの怪物的な造形と対比される。その落差によって、本作のヴィラン像は深い陰影を獲得した。最後に響く咆哮も、勝利の雄叫びというより、自ら選んだ取引がもう取り返しのつかないものだと初めて悟った男の悲鳴のように聞こえる。
ブロンスキーのその後は、Disney+ドラマ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)でティム・ロスの再演とともに描かれる。本作で生かされたまま拘束された彼が、長い服役を経て仮釈放へと向かう姿が示されるのだ。終盤でハルクが彼の首を折らなかった選択は、のちのMCUの物語のなかで、確かにひとつの伏線として回収されることになる。
サミュエル・スターンズ
スターンズが姿を現すのは、暗号メールの差出人「ミスター・ブルー」としてまず登場した後、研究室の地下でのことだ。早口で、抑えのきかない知性をそのまま言葉にする饒舌な男だが、その好奇心は常に倫理の一歩先を走っている。本作の彼は、ブルースを救おうとする協力者でありながら、同時に「ブルースのような身体」を自らの手で量産することにも抗いがたく引き寄せられていく。
額に飛んだ一滴のガンマ血液――それが、後年のMCUで彼が「リーダー」へと変貌する起点となる。原作のリーダーは、異常に肥大化した知能と膨れ上がった緑色の頭部を特徴とするハルクの宿敵であり、終盤のカットはその誕生を観客に向けて明確に予告している。彼のその後は長らく語られないままだったが、ティム・ブレイク・ネルソンが『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)で同役を再演し、本作の伏線を約17年越しに回収することとなった。
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舞台と用語
本作の舞台は、2008年の現代地球——MCU主世界(Earth-199999)である。リオデジャネイロ郊外のロシーニャ、グアテマラ国境地帯、ヴァージニア州のカルバー大学キャンパス、ニューヨーク・グレイバーン大学の細胞生物学研究所、ハーレム大通り、そしてカナダ・ブリティッシュコロンビア州ベラ・クーラの森の奥——舞台は世界各地に散らばり、まるで逃亡者の揺れる心象を映し出すかのようだ。
用語の面では、ガンマ線、スーパー・ソルジャー血清、超人兵士計画、ガンマ変異、アボミネーション、リーダー、心拍トリガー、意志的変身、ミスター・ブルー、ロシーニャ、カルバー大学、グレイバーン大学が鍵となる。なかでも「スーパー・ソルジャー血清」は、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』との接続を予告するキーワードだ。ロス将軍が口にする「第二次大戦期の計画」は、のちのMCUにおける意味づけを決定づける伏線として響いてくる。
MCU全体のフェーズ構造のなかで、本作はフェーズ1の第2作にあたる。バナーの物語は、のちにマーク・ラファロへと引き継がれ、『アベンジャーズ』『エイジ・オブ・ウルトロン』『ラグナロク』『インフィニティ・ウォー』『エンドゲーム』『シー・ハルク』へと続いていく。その長い物語の最初の一行を、ノートン版バナーが本作で静かに書き残しているのだ。
20制作
本作はマーベル・スタジオがMCU第2作として企画し、配給はユニバーサル・ピクチャーズが手がけた。当初は2003年版のアン・リー監督『ハルク』をゆるやかに作り直すソフトリブートとして構想されたが、最終的にはオリジン(誕生の経緯を描く物語)をあえて省き、独立した新作として組み立てられた。以下、企画から特撮にいたる主要な流れを整理していきたい。
企画と脚本
マーベル・スタジオは2006年、ユニバーサル・ピクチャーズとの交渉の末、長らく休眠状態にあったハルクの映画化権を、本作に限り自社製作で再起動することで合意に至った。ユニバーサルは単独ハルク作品の劇場およびソフトの配給権を引き続き握ることを条件に企画へ同意した。その結果、現在に至るまでハルク単独の劇場作品は本作を最後に製作されていない。
脚本の主筆を務めたのはザック・ペン(『X-MEN:ファイナル・ディシジョン』『リプレイ』)である。初稿の段階では、2003年版『ハルク』との連続性をうかがわせる場面も含まれていたという。だが主演に決まったエドワード・ノートンは、自らの演技哲学に従い、撮影現場で台詞や場面を大幅に書き加えていった。最終クレジットは全米脚本家組合(WGA)の裁定によりペン単独となったものの、本作の静かな内省の場面の多くはノートンの筆によるものとされている。
監督のルイ・レテリエ(『ジェイソン・ステイサム主演トランスポーター』シリーズ、『ダニー・ザ・ドッグ』)はフランス出身で、人物の身体性をすくい取る演出に定評がある。本作ではハルクのCGアクションを必要以上に派手に見せることを避けた。ファヴェーラを舞台にしたパルクール的な追跡、カルバー大学での昼間の混戦、ハーレムの夜を覆う長尺のバトル。この三つのアクションを、それぞれ明確に異なる演出の語彙で組み立ててみせた。
キャスティング
主役ブルース・バナーには、当初マーク・ラファロを含む複数の候補が検討されたが、最終的にエドワード・ノートンに決まった。ノートンは『ファイト・クラブ』(1999)『プリミティブ・ジャングル』『真実の行方』(1996)などで知性派俳優としての地位を築いており、鬱屈と暴発のあいだを行き来する科学者というブルース像にこそふさわしいと判断された。
ベティ・ロス役にはリヴ・タイラー(『パール・ハーバー』『ロード・オブ・ザ・リング』三部作)、ロス将軍役にはアカデミー賞俳優ウィリアム・ハート(『蜘蛛女のキス』『ヒストリー・オブ・バイオレンス』)、ブロンスキー役にはティム・ロス(『パルプ・フィクション』『ヘイトフル・エイト』)、スターンズ役にはティム・ブレイク・ネルソン(『オー・ブラザー!』『リンカーン』)が起用された。シェイクスピア劇の舞台を踏んできた顔ぶれが、登場人物の関係に演劇的な重みを添えている。
ポストクレジットでトニー・スターク役を演じるのは、わずか5週間前に公開されたばかりの『アイアンマン』から続投したロバート・ダウニー・Jr.。マーベル・スタジオ社長ケヴィン・ファイギは、この40秒の場面を本作後半の編集と並行して急遽組み込み、二つの作品世界を結ぶ最初の橋とした。スタン・リーは汚染されたソーダを飲んで救急搬送される男としてカメオ出演。さらに、1977年版テレビシリーズでハルクを演じたルー・フェリグノが瓶詰工場の警備員役でカメオ出演し、ハルクの叫び声の一部にも彼の声が使われている。
撮影とロケ地
主要撮影は2007年7月から11月にかけて、カナダのオンタリオ州トロントを拠点に行われた。ロケ地の使い方も巧みで、トロント大学とブロック大学(カナダ)をカルバー大学のキャンパスに、トロント市街地の数ブロックをハーレム大通りに、それぞれ仕立てている。リオデジャネイロのロシーニャでは現地での撮影を敢行し、住民をエキストラに起用したパルクール風の追跡劇は、本作屈指の見せ場となった。
撮影監督のピーター・メンジス・ジュニア(『キング・アーサー』『ラスト・サムライ』)は、三つの主要なアクション場面に、それぞれ異なる色温度と質感を与えた。ロシーニャは強い夕陽の橙色と長い影、カルバー大での昼間の決戦は乾いた緑と土埃、そしてハーレムの夜の決戦は雨に濡れたアスファルトの黒と街灯のナトリウム橙——徹底した色彩設計が、本作の地理的な多彩さを支えている。
瓶詰工場のシークエンスは、トロント郊外にある実在の飲料工場を借り切って撮影された。ノートンとロスの高所アクションは一部を除いてスタント・ダブルを最小限に抑え、本人による撮影を中心に据えている。雨の山小屋のシークエンスでは、天候を待つのではなく、強い人工雨と低温の照明によって「冷たさ」を作り込んだ。
視覚効果
本作の視覚効果は、リズム&ヒューズ・スタジオが主担当を務め、Hydraulx、Image Engine、Soho VFX、CIS Hollywoodなど複数のスタジオが分担して手がけた。最も負荷の高かったのは、ハルクとアボミネーションそれぞれのフル・キャラクター・アニメーション、カルバー大決戦とハーレム決戦における市街地の破壊描写、そしてガンマ照射装置のホログラム・インターフェイスである。
ハルクの造形は、2003年版『ハルク』の鮮やかな緑とは異なり、よりくすんだ暗緑色と多層的な筋繊維のシェーダーで構築された。身長はおよそ2.7メートル前後に設定され、観客の身体感覚で「巨大すぎて非現実的にならず、しかし圧倒的に大きい」という境界を狙ったという。フェイシャル・アニメーションはエドワード・ノートンの表情をもとにつくり込まれ、怒りに我を忘れた瞬間にもブルース本人の眼差しの記憶が残るよう設計された。
アボミネーションの造形は、ハルクの均整をあえて崩した「歪んだ巨人」として練り上げられた。背骨の突起、額に並ぶ四本の角、裂けた顎、鎧のような皮膚の襞——いずれも原作アボミネーションのデザインを尊重しつつ、ティム・ロスの細い顔と低い声を残すフェイシャル設計が施されている。ハーレム決戦の市街地破壊は、当時としては大規模なミニチュア・シミュレーションとCGのビル群を合成して構築された。
音楽と音響
音楽を手がけたのはクレイグ・アームストロング(『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』)である。彼のスコアは、本作の舞台となる三つの場所——リオの郊外、ヴァージニアの大学、ハーレムの夜の街——に、それぞれ別の音色の領域を割り当てる。リオでは弦のピチカートと打楽器がラテン的な脈動を刻み、カルバー大学では弦の長いラインに金管の警告音が重なる。そしてハーレムは、低音シンセサイザーと打楽器の連打が支配する。音楽の地理的な設計が、画面に映る地理の多様さと完全に同期しているのだ。
1977年版テレビシリーズ『The Incredible Hulk』の主題曲「The Lonely Man」(ジョー・ハーネル作曲)のピアノ・モティーフが、本作のラスト近くで短く引用される。ブルースが孤独な道を歩み続けることを暗示する選曲であり、原作とテレビシリーズの長い歴史への敬意を込めた目礼として、本作の批評で広く言及された一場面である。
音響デザインにも、本作の歴史的な位置を音の層で示そうとする試みがうかがえる。ハルクの咆哮には、ルー・フェリグノの実演による声がベース層として混ぜ込まれた。一方、アボミネーションの咆哮には金属質の倍音が加えられており、二体の巨人を観客の耳のなかで明確に聞き分けられるよう設計されている。
編集と公開準備
編集はジョン・ライト、リック・シェイン、ヴァンサン・タバイヨンの三名が手がけた。劇場公開版は112分にまとめられているが、ノートンが初期段階で提示した長尺版は135分前後に及んだと伝えられ、内省的な場面や、太極拳の師との対話シーンの多くが削り落とされた。マーベル・スタジオは大衆向けのテンポを、ノートンは人物の内面の厚みを求め、最終的にスタジオ側の方針が通った。
編集方針を巡るこの対立は、ノートンとマーベルの関係に深い亀裂を残した。続編や集合篇でのブルース役は最終的にマーク・ラファロが引き継ぎ、ノートン版バナーは本作一作で幕を閉じる。後年に至るまで完全な拡張カットはソフト版でも公式にリリースされておらず、削除シーンの一部がDVD特典として収められているにとどまる。
エンドクレジット後のトニー・スターク登場場面は、本編の完成後、ごく短期間のうちに追加撮影と編集が行われたものだ。ケヴィン・ファイギは後年のインタビューで、この40秒こそ「MCUを単発の二作から長期の連作へと切り替えるスイッチだった」と語っている。
27公開と興行
本作は2008年6月8日、ロサンゼルスのギブソン・アンフィシアターでワールド・プレミアを迎え、米国では同年6月13日に公開された。日本では『インクレディブル・ハルク』の邦題で、2008年8月1日に劇場へ届いた。直前に公開された『アイアンマン』(米国5月2日公開)と合わせ、夏興行を二発の連打で攻めたことで、新生マーベル・スタジオの存在感は一気に高まった。
全世界興行収入は約2億6,360万ドル(北米約1億3,460万ドル、海外約1億2,900万ドル)に達し、製作費約1億5,000万ドルに対して堅実に黒字を確保した。2003年版『ハルク』の全世界約2億4,500万ドルを上回り、長く低迷していたハルクの映画化を、商業的に再起動させることにも成功している。
批評筋では、Rotten Tomatoesの批評家支持率が67%前後、Metacriticでも中央値水準のスコアを記録した。多くの批評家は、エドワード・ノートン、ティム・ロス、ウィリアム・ハートの演技、作中三つのアクション場面の作り込み、そしてポストクレジットでの『アイアンマン』との接続を評価した。一方、脚本の小気味よさや、ハルクそのもののCG表現については賛否が分かれた。
28批評・評価・文化的影響
本作はMCUという長期連作の「最初の鈎」として、商業面でも物語面でも重要な役割を担った。ポストクレジットでトニー・スタークが直接ロス将軍に接触する場面は、当時の観客に「二つの単独作が同じ現実を共有している」という驚きを与えた。後の『アベンジャーズ』(2012)へ向けた長い助走の、決定的な一歩である。
公開から長らく、本作はノートンの離脱を巡る経緯や、MCU全体での主役交代という特殊な事情から、「MCUの異物」「家系図のなかの兄弟」として語られることが多かった。だが2010年代後半以降、フェーズ1を改めて通して観る視点が広がるにつれ、評価は変わっていく。三つのアクション場面の演出の完成度、ティム・ブレイク・ネルソンとティム・ロスが仕込んだ伏線、そしてロス将軍という長い物語の起点としての重み——こうした要素が、次第に見直されていった。
とりわけ大きいのが、長い時を経た「回収」である。ティム・ブレイク・ネルソンのサミュエル・スターンズは約17年後の『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)で再登場し、ティム・ロスのブロンスキーは『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)で再び姿を見せた。さらにロス将軍の物語は、『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』までハリソン・フォードへと引き継がれ、なお続いている。これらの伏線が結実するたびに、本作の存在感は年々強まっているのだ。
舞台裏とトリビア
本作の冒頭タイトル・シークエンスには当初、米陸軍の旧研究施設として描かれる場面に、ある人物を仄めかすカットが盛り込まれる予定だった。第二次大戦期に冷凍保存されたその人物とは、後年『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』(2011)で本格的に登場するスティーブ・ロジャースである。だが、このカットは最終的に削除された。スーパー・ソルジャー血清への直接の言及は、ロス将軍がブロンスキーに「第二次大戦期の計画の派生」と告げる台詞のなかに残されている。
瓶詰工場の場面でスタン・リーが演じる「汚染ソーダを飲む老人」は、MCUに散りばめられた彼のカメオのなかでも、最も明確に物語そのものを動かす一人だ。その一口こそが、本作の筋を本格的に走らせる引き金となる。並んでカメオ出演したルー・フェリグノは、1977年版テレビシリーズで5シーズン以上にわたりハルクを演じた俳優であり、本作で警備員を演じたことは、原作と映像史への目礼にほかならない。
ハーレムでの決戦で、ハルクは折り取った警察車両の鉄鎖を手にし、その両端を炎で焼いて溶接し、即席の鎖鎌を作り上げる。この一連の動作はノートンが撮影現場で提案したアイデアのひとつで、レテリエ監督が映像へと落とし込んだ。後年のラファロ版ハルクと比べると、本作のハルクは手近な道具を即興で武器に変える点に、戦闘設計上のはっきりとした個性がある。
編集をめぐるマーベル・スタジオとノートンの対立は、後年マーベル・スタジオが掲げる「演出は監督・スタジオの最終判断とする」という原則の起点として、広く語り継がれている。ノートン自身は本作を最後にMCU作品へ登板していないが、その演技と現場での加筆は、いまも本作のなかに静かに息づいている。
30テーマと解釈
本作の中心テーマは「自分の中の獣との取引」である。怒りで暴走する身体を抑え込むのか、それとも乗り越えるのか、あるいは折り合いをつけるのか——前半でブルースは「抑え込み」、中盤で「諦めて爆発し」、後半で「自ら選んで身を委ねる」。こうして彼は自分の獣との関係を三段階で書き換えていく。ベラ・クーラのキャビンで、彼が自ら緑の瞳を選び取る最後のカット。それは、本作全編がこの三段階の物語であったことを観客に静かに告げている。
もう一つの軸は、軍事と科学の癒着である。冷戦期の超人兵士計画の現代版という前史、ロス将軍とブロンスキーの取引、スターンズの研究室で繰り広げられる過剰な実験——「身体を強くする科学」が「身体を兵器に変える政治」と切り離せないことを、本作は繰り返し突きつける。アボミネーションは、その癒着が生んだ最も極端な果実として描かれている。
そして三つ目が、家族と疎隔だ。ベティとロス将軍の長きにわたる確執、ブルースとロス将軍の二重の対立、ベティとブルースに残された不可能な未来——本作の人物関係はいずれも、ある種の家族が壊れていく過程と、それをもう一度繋ぎ直そうとする試みのなかに置かれている。ハーレム決戦の最後、ハルクがロスに長い視線を投げかけ、その腕にベティを抱えたまま去っていく数秒間。家族というテーマの帰結として、そこには静かな重みが宿る。
31見る順番
MCU公開順では、本作の前は『アイアンマン』(2008年5月)、次が『アイアンマン2』(2010年5月)にあたる。公開は同年6月、二本の『アイアンマン』に挟まれた位置にある。MCU時系列順で追う場合も、両者の間に本作を据える整理が一般的だ。
本作のポストクレジットで、トニー・スタークがロス将軍に「アベンジャーズ計画」を切り出す場面は、後の『アベンジャーズ』(2012)へ直接つながり、鑑賞順を大きく左右する。さらに登場人物それぞれが長い伏線の回収へと道筋を持つ。サミュエル・スターンズは『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)へ、エミル・ブロンスキーは『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)へ、そしてロス将軍は『シビル・ウォー』(2016)から『ブレイブ・ニュー・ワールド』までへと連なっていく。
32よくある質問
「あらすじだけ知りたい」なら、おおまかに七つの場面を押さえれば十分だ。リオでの潜伏、瓶詰工場の襲撃と最初のハルク覚醒、カルバー大学での二度目の覚醒、ニューヨークでのサミュエル・スターンズとの接触、ブロンスキーのアボミネーション化、ハーレム決戦、そしてベラ・クーラでの自発的変身——この流れをたどれば物語の骨格はつかめる。「結末を知りたい」なら、次の三点に注目したい。ハルクはベティの一声でアボミネーションを生かしたまま倒し、ベラ・クーラの森の奥で自らの意思で緑の瞳を選ぶ。さらにポストクレジットで、トニー・スタークがロス将軍に「アベンジャーズ計画」を持ちかける。ここを押さえれば、物語の決着は把握できる。
「ノートン版バナーとラファロ版バナーは同一人物か?」という問いには、MCUの公式設定では「同一人物」として扱われる、と答えるのが最も正確である。本作以降、ブルース役を担うのはマーク・ラファロだが、本作で描かれたガンマ事故、ロス将軍との関係、ベティとの旧情、スターンズの伏線は、いずれも公式設定として後の作品に受け継がれている。
「ユニバーサル・ピクチャーズはなぜ配給に名を連ねているのか?」という問いには、こう答えるのが正しい。ユニバーサルは2000年代初頭から保有してきたハルク映画化権のうち、単独ハルク作品の劇場・ソフト配給権を現在も握っている。そのためマーベル・スタジオはチーム作品でハルクを自由に使えるものの、ハルク単独の劇場映画を新たに製作する際にはユニバーサルとの再交渉が必要となる——この構造が今も続いているのだ。
33参考資料・脚注
作品名、キャラクター名、画像、および各種権利は、それぞれの権利者に帰属する。公開年や興行成績、制作・配信の状況、外部からの評価は変動しうるため、視聴の前に公式サイトおよび各データベースの最新情報を確認されたい。なお本記事の本文は、各種の公開情報をもとに、Anna Movies用の独自記事として日本語で構成したものである。