ブラジルの貧民街で心拍計を腕に巻いて潜伏する元科学者——ガンマ線照射事故で「自分の中の獣」を抱え込んだブルース・バナーが、故郷へ戻り、彼を造ろうとした男たちと、彼の血から造られたもう一匹の怪物に決着をつける。マーベル・スタジオがMCUの第2作として送り出した、ルイ・レテリエ監督/エドワード・ノートン主演のスーパーヒーロー映画。
マーベル・スタジオが自社製作したMCU第2作。配給はユニバーサル・ピクチャーズ(ユニバーサルは単独ハルク映画の劇場配給権を現在も保有する一方、チーム作品でのキャラクター使用権はマーベル側に残る)。脚本はザック・ペンが主筆を担い、主演エドワード・ノートンが現場で大幅な加筆を行ったが、最終クレジットはペン単独。上映時間112分、製作費約1億5,000万ドル、全世界興収約2億6,360万ドル。
MCUフェーズ1・第2作にあたり、『アイアンマン』公開の僅か5週間後に劇場入りした。本作の冒頭は、2003年版アン・リー監督『ハルク』のオリジン譚を踏襲することなく、タイトル・シークエンスのみで事故と逃亡の経緯を高速に処理する。ポストクレジットでトニー・スタークがロス将軍を訪ねる場面によって、本作とアイアンマンの世界が初めて明確に同一宇宙のものとして提示される。
Rotten Tomatoes批評家評価は67%前後と『アイアンマン』に比べて落ち着いた水準だが、興行的には全世界2億6,360万ドルを記録し、ユニバーサル時代の不評を払拭して黒字化に成功。後年は『アベンジャーズ』以降でブルース・バナー役がマーク・ラファロに引き継がれた経緯とともに、フェーズ1の重要な補助線として再評価されている。
リオデジャネイロの瓶詰工場での襲撃、グアテマラ経由の帰国、カルバー大学でのハルク覚醒、サミュエル・スターンズとの接触、エミル・ブロンスキーのアボミネーション化、ハーレム決戦、ベラ・クーラの森でブルースが自ら変身を始める結末、そして「アベンジャーズ計画」を口にするトニー・スタークがバーに現れるポストクレジットまで、ネタバレを前提に全編を解説する。
目次 34項目 開く
概要
『インクレディブル・ハルク』(The Incredible Hulk)は、ルイ・レテリエが監督し、ザック・ペンが脚本を執筆したアメリカのスーパーヒーロー映画である。マーベル・スタジオが自社で製作し、ユニバーサル・ピクチャーズが配給した、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)通算第2作にあたる。米国公開は2008年6月13日、『アイアンマン』(同年5月2日米国公開)からわずか5週間後の劇場入りであり、フェーズ1の二発目として、新生マーベル・スタジオの体力を観客と業界に示す役割を負った一本である。
原作は、スタン・リー、ジャック・カービーが1962年に『The Incredible Hulk #1』で発表したヒーロー、ハルク(ブルース・バナー博士)。本作はそのオリジン譚をフラッシュバックではなくタイトル・シークエンスとして圧縮し、本編の冒頭から既に「ガンマ事故から数か月、潜伏する科学者」の姿を映し出すという、シリーズ第二作ならではの大胆な構成を採る。2003年版アン・リー監督『ハルク』のリブート的続編という性格を実質的に帯びつつも、物語的・キャスト的なつながりは明示されておらず、独立した新作として観られるよう設計されている。
主要キャストはエドワード・ノートン(ブルース・バナー博士/ハルク)、リヴ・タイラー(エリザベス・“ベティ”・ロス)、ティム・ロス(エミル・ブロンスキー/アボミネーション)、ウィリアム・ハート(サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍)、ティム・ブレイク・ネルソン(サミュエル・スターンズ/“ミスター・ブルー”)、タイ・バレル(レナード・サムソン博士)。ポストクレジットでは、サプライズ的にロバート・ダウニー・Jr.がトニー・スタークとして出演し、アイアンマンとハルクの世界を結ぶ最初の橋を架ける。さらにスタン・リーとルー・フェリグノ(1977年版テレビシリーズでハルクを演じた俳優)がカメオ出演している。
本記事は、結末、ハーレムでのアボミネーション戦、ベラ・クーラのキャビンでブルースが自らハルク化を始める最終ショット、そしてポストクレジットでトニー・スタークが「アベンジャーズ計画」を口にする場面までを含む全編のネタバレを前提に構成している。物語の驚きを残しておきたい読者は、視聴後に戻ってきてほしい。
- 原題
- The Incredible Hulk
- 監督
- ルイ・レテリエ
- 脚本
- ザック・ペン
- 原作
- マーベル・コミック(スタン・リー/ジャック・カービー、1962)
- 音楽
- クレイグ・アームストロング
- 撮影
- ピーター・メンジス・ジュニア
- 米国公開
- 2008年6月13日
- 上映時間
- 112分
- ジャンル
- スーパーヒーロー、SFアクション、追跡スリラー
- シリーズ区分
- MCUフェーズ1・第2作/インフィニティ・サーガ
あらすじ
以下は結末、ハーレム決戦、そしてポストクレジット・シーンまでを含む全編のあらすじである。タイトル・シークエンスで提示されるガンマ事故の経緯、ブラジル・リオデジャネイロ郊外ロシーニャでの潜伏、瓶詰工場でのブロンスキー隊の襲撃と最初のハルク覚醒、グアテマラ経由の帰還、カルバー大学でのベティとの再会と二度目の覚醒、サミュエル・スターンズとの接触、ブロンスキーのアボミネーション化、ハーレム決戦、そして大学時代の助手ベラ・クーラでブルースが自ら変身に踏み込む結末まで、順を追って整理する。
タイトル・シークエンス——ガンマ事故と逃亡
本作にはオリジン譚の本格的なフラッシュバックは存在しない。代わりに、新聞紙面・実験ログ・監視カメラ映像・赤色警報のフラッシュを連続させたタイトル・シークエンスが、観客に必要な前提を一気に渡す。サディアス・ロス将軍(ウィリアム・ハート)が指揮する米陸軍の「バイオフォース・エンハンスメント・プロジェクト」——第二次世界大戦期の超人兵士計画の現代的後継——のもと、若き科学者ブルース・バナー博士(エドワード・ノートン)はガンマ線照射の被験体となる。
実験は失敗する。意識を失ったブルースは制御不能の怪物へ変身し、自分の婚約者であり共同研究者であるベティ・ロス(リヴ・タイラー)を傷つけ、研究施設を破壊して逃亡する。タイトル下に示される手紙、追跡されるパスポート、各国の入国スタンプ、心拍計の数値、書きかけのメモ——観客はこの数十秒で、彼が「自分の中の獣」を抑えるために生活の全てを変えてしまったことを理解する。
シークエンスの最後で映し出されるのは、ブラジル・リオデジャネイロ郊外の貧民街ロシーニャの俯瞰と、その路地裏で目を覚ますブルースの顔。手首には心拍計、机の上には脈拍のグラフを記録するノート、壁にはポルトガル語の挨拶を書き留めた紙。そして画面の右下に、変身せずに過ごした日数を刻むカウンター——「無事故 158日」。
リオデジャネイロ——瓶詰工場の日常と「怒らない技術」
ブルースは身分を偽り、ロシーニャのソフトドリンク瓶詰工場で清掃・整備の工員として働いている。同時にインターネット越しに、姿を知らぬ協力者「ミスター・ブルー(Mr. Blue)」と暗号化メールで対話し、自分の体内のガンマ線変異の解析と、もしあれば治療法の手がかりを探している。並行してブラジルの太極拳・呼吸法の老師について「心拍を上げない技術」を学び、怒気の予兆を呼吸で散らす訓練を日課としている。
工場の若い同僚マルティナがセクハラ気味の上司に絡まれかけた日、ブルースは英語で声を抑えた警告を残したまま立ち去ろうとするが、相手は通じない英語の挑発を続ける。心拍計が上限に近づき、ブルースは目を逸らして深呼吸し、警告を二度繰り返したうえで早足で外へ出る——この一連が、本作の彼が習得しつつある「怒りを処理する技術」の典型例として序盤に提示される。
ある日、瓶詰ラインの清掃中にブルースは右手の中指を切ってしまう。一滴の血が、出荷直前のソーダ瓶の一つに落ちる。彼自身は気づかず、瓶は流通網を辿って米国へ渡る。米国側で、その瓶のソーダを冷蔵庫から出して飲んだ初老の男(カメオ出演のスタン・リー)が、ガンマ線で変質した血液を体内に取り込み、体調を崩して救急搬送される。事故は地方紙の小さな記事になり、ハーレム上空の軍衛星監視を通じてロス将軍のチームに辿り着く——逃亡したブルースの居所が、ついに割れる。
瓶詰工場の襲撃と最初の変身
ロス将軍は、英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)出身でアメリカ陸軍に出向中のエミル・ブロンスキー大尉(ティム・ロス)に、ブルース・バナー身柄確保任務の指揮を任せる。ブロンスキーは長年最前線で戦ってきたが、加齢で衰えゆく自身の身体に苛立ちを募らせている——ロスから「もし君が三十歳の身体でこの仕事をしていたら何ができるか考えてみろ」と囁かれる瞬間、彼の心には別の選択肢が芽生えている。
夜のロシーニャ。ブロンスキー隊は瓶詰工場と周辺路地を包囲し、ブルースの長屋風アパートに突入する。警告音を聞いたブルースは脈拍を必死に落ち着けようとしながら屋根伝いに逃げ、工場の機械室・倉庫・冷蔵セクションを抜けて細い路地へ駆け込む。屋上を伝い、ファヴェーラの斜面を滑り降り、上下に折れ曲がる無数の階段を音もなく走り抜けるパルクール的な追跡劇が、本作の最初のアクション・シークエンスを構成する。
ブロンスキーは一度ブルースに肉薄するが、心拍が限界を越えたブルースは工場の搬入口で初めて画面に巨大な影として現れる。倉庫の薄暗がりのなかで段ボールが弾け飛び、フォークリフトが跳ね上げられ、緑色の巨体——ハルク——が大尉の隊を片端から薙ぎ払う。ブロンスキー自身も近距離で殴られて床に叩きつけられ、骨にひびを入れる。ハルクは工場の壁を突き破って斜面の闇へ姿を消し、観客は彼の本物の輪郭を初めて目にする。
この夜の襲撃で、ブロンスキーの内側には決定的な傷ができる。彼は病院のベッドで一晩中、自分を吹き飛ばした緑色の影のことを反芻する——「あの力が欲しい」と。彼の物語の歯車は、この夜から本作のクライマックスへ向けて、ゆっくりと、しかし確実に回り始める。
帰国——グアテマラからカルバー大学へ
リオを脱出したブルースは、グアテマラの国境を歩いて越え、メキシコ湾沿いを北上してアメリカ南東部へ戻る。途中、雨の荷台に揺られながら、彼はラップトップの暗号メールでミスター・ブルーに「米国へ戻る。サンプルを持って会いに行く」と告げる。ミスター・ブルーは「ニューヨークで待つ。だが、もし症状が出たら、絶対に都市部に入るな」と返す。
ブルースが向かうのは故郷ヴァージニア州——彼が事故を起こしたカルバー大学のキャンパス、そしてベティ・ロスのもとである。深夜、彼は雨に濡れたまま大学の医療棟の階段に座り、ベティが講師として勤めている棟の灯りを見上げる。ベティはすでに精神医療の専門家レナード・サムソン博士(タイ・バレル)と新しい関係に入っているが、ブルースの姿を見た瞬間、彼女のなかの何かが旧来の引力に引き戻される。
一晩、ブルースはサムソンの提供する書斎の長椅子で眠る。翌朝、サムソンは複雑な表情でブルースに「ベティのために、君は自分の身柄について正しい判断をするべきだ」と告げる。ブルースは静かに肯くが、ベティはサムソンの忠告に反して、ブルースとともにキャンパスを離れる準備を進めはじめる。彼女は研究室の金庫から、事故当夜のガンマ照射データの一部を取り出し、外付けドライブに移す——本作のクライマックスでスターンズに渡される、唯一無二のサンプルである。
カルバー大学決戦——二度目の変身とブロンスキーの傲慢
ベティと再会したことで弛んだブルースの警戒は、ロス将軍の二度目の襲撃で一気に破られる。陽が高い昼下がりのキャンパス中庭で、ブロンスキー指揮下の特殊部隊が四方向からブルース/ベティを包囲する。今度のブロンスキーは違う——リオの夜の屈辱以降、彼はロス将軍に直訴して、第二次大戦期の超人兵士計画の派生で開発された「弱体化版スーパー・ソルジャー血清」の自願被験者となっていた。瞳の奥に銀色の光を宿し、骨の強度は跳ね上がり、反射神経は人類規格を逸している。
拘束された瞬間、ブルースの心拍は爆発的に上昇する。彼は二度目のハルクへの変身を遂げ、軍用ハンヴィー、装甲車、放水砲、対戦車ミサイル発射台を、まるで遊具のように扱う。ロス将軍は遠方のヘリコプターから指揮を執るが、自分が育てた怪物が自分の娘の前で吠える瞬間、視線をひととき逸らさざるを得ない。
ブロンスキーは血清に酔い、ハルクの前に立ち塞がる。「もう怖くない」と告げ、両手にナイフを構える——次の瞬間、ハルクの片足の蹴り上げが彼を中庭の樹木へ叩きつけ、彼の背骨と複数の肋骨を粉砕する。彼は呼吸器を装着した状態で病院へ搬送され、長い昏睡へ入る。観客は、彼がこの惨敗の屈辱から、本作の終盤に何を選ぶかを既に予感する。
ハルクは森のなかへベティを抱えたまま跳び去る。ロス将軍は娘を奪われた父として一夜を過ごし、翌朝、空からの捜索を再開する。雨の山小屋で目を覚ましたブルースは、自分の腕の中にベティが眠っていることを知る。彼女は寒さに震え、彼は彼女に毛布をかけ直す——本作の中で最も静かで、最も人間的な数分間である。
ミスター・ブルー登場——サミュエル・スターンズの研究室
山を越えてニューヨークへ向かう旅の途中、ブルースとベティはピザ屋の電話とインターネットカフェを乗り継ぎ、ようやくミスター・ブルー本人の所在に辿り着く。マンハッタン市内の医療系研究機関、グレイバーン大学の細胞生物学研究所の地下に勤める准教授——サミュエル・スターンズ博士(ティム・ブレイク・ネルソン)。眼鏡の奥で常に瞳が踊る、過剰に饒舌な天才。彼が「ミスター・ブルー」である。
スターンズは、ブルースが過去数か月間、リオから少量ずつ送り続けてきた自身のガンマ変異血液サンプルを、自身の研究室の冷蔵庫に山積みにしている。彼の説明によれば、ブルースの血液は人類が見たことのない可塑性を持ち、未だ未知の応用可能性に開かれている。彼は「治療」のために、ブルースのガンマ変異を一時的に拮抗・中和する治療プロトコルを設計しており、ベティが大学から持ち出した照射データはそのプロトコルの最後の鍵となる。
ブルースは試験的に治療プロトコルの第一段階を受ける。机に縛り付けられ、薬剤の効きを試すために意図的に心拍を上げる工程——ベティが「私の前で怒ってみせて」と促し、彼が叫び始める瞬間、皮膚に緑の波が走る。だが薬剤が体内に行き渡ると、波は治まり、ブルースは数か月ぶりに「人間のまま心拍が落ちる」体験を得る。短い一拍の沈黙ののち、研究室の三人は、初めて笑顔を交わす。
だがスターンズには、ブルース側に伝えなかった事実があった。彼は治療を本気で試みると同時に、ブルースから集めた血液サンプルを使って、より持続的に「ブルースのような身体」を生み出す合成血清の研究も同時並行で進めていた。彼自身、純粋な科学的好奇心ゆえに、その境界に踏み込みつつあった——その判断が、本作のクライマックスを規定する。
ブロンスキーの第二改造とアボミネーションの誕生
病院のベッドから復活したブロンスキーは、ロス将軍に再度直訴する。「あの“もの”をもっと撃てる身体が欲しい」。ロス将軍は躊躇しながらも、ブルース捕獲のためにブロンスキーをグレイバーン大学の研究室まで案内する。スターンズが治療を完了させてブルースの心拍が落ちた直後の研究室——その扉を、銃を構えたブロンスキーが押し開ける。
ブロンスキーはブルースとベティを縛り上げ、スターンズに対し、自分の身体にもブルースと同じ「変身」を施せ、と詰め寄る。スターンズはためらう——「あなたの身体はすでにスーパー・ソルジャー血清で改造されている。ガンマを上乗せすれば、何が出てくるか分からない。化け物だ、化け物だ……」。ブロンスキーは銃口を彼の額に押し当て、「化け物でいい」と告げる。
スターンズはブロンスキーをガラス円柱の中に座らせ、ブルースの血液から精製したガンマ薬剤を首元に注入する。注入されたブロンスキーの背中の骨が突き上がり、額の骨が四本の角状に伸び、顎が裂け、皮膚は鋭利な鎧の質感を帯びる。原作で長く愛されてきたヴィラン「アボミネーション」が、巨大な怪物として研究室の壁を突き破り、夜のマンハッタンへ出ていく。
その混乱のなかで、研究室の作業台の上に置かれていたガンマ変異血液の試薬瓶が倒れ、僅かな量がスターンズ自身の額の傷に流れ込む。彼の額の皮膚はその瞬間から不気味に膨らみ、緑色を帯びはじめる——原作の彼の運命、すなわち頭脳の異常肥大化を遂げる悪役「リーダー(The Leader)」誕生への伏線が、ここに静かに置かれる。
ハーレム決戦——ハルク対アボミネーション
アボミネーションはマンハッタンを北上し、ハーレムの大通りで車両を投げ飛ばし、街路樹をなぎ倒しながら、画面を埋め尽くす破壊を撒き散らす。ロス将軍はベティとブルースをヘリコプターに収容したまま現場へ駆けつけるが、自分の手で生んだもう一匹の怪物に対し、最早正規軍だけでは止められないことを理解する。
ブルースは縛られた状態のまま、ロス将軍に向かって叫ぶ——「私を落としてくれ。落としてくれれば、もう一度あれをやれる。私はあなた方が必要としているものになる」。ロスは長い逡巡ののち、ヘリコプターの後部扉を開ける。ブルースはニューヨークの夜の街並みに向かって、自分の意思で身を投げ落とす——観客は、彼がこれまでの本編で一度も自発的にハルクへの変身を選んだことがないことに気づく。地面に近づいた瞬間、彼の身体は緑の閃光に包まれ、ハルクとしてアスファルトに着地する。
ハルクとアボミネーションのハーレム決戦は、本作の最大のスペクタクルとして約12分の長尺で展開する。崩れる消防車、引き抜かれる街灯、片手で半分に折られたパトカーで作られる即席の鎖鎌、火を噴くガスパイプの炎を素手で受け止める対峙——両者の規模感は本作以前のスーパーヒーロー映画にとって異例の大きさで、観客は街そのものが揺らぐ感覚を味わう。
決着は、アボミネーションがベティに迫った瞬間に訪れる。ハルクは折り取った警察車両の鉄鎖をアボミネーションの首に巻きつけ、絞め上げる。あと数秒で首を折りきる——ベティの「ブルース!」という叫びが届く。ハルクは凶悪な瞳のまま停止し、ゆっくりと鎖を緩めて生かす選択を取る。彼はベティを腕に抱えあげ、ロス将軍と長い視線を交わしたうえで、街の闇のなかへ跳び去る。
ベラ・クーラ——「もう一度」コントロールを取り戻す
本編のラスト数分、舞台はカナダ・ブリティッシュコロンビア州ベラ・クーラの森奥のキャビンへ飛ぶ。雪に覆われた針葉樹林のなか、ブルースは木造の小屋で深い静坐を続けている。彼の指の脈は安定し、ノートの脈拍グラフは穏やかな水平線を描く。傍らには、リオの瓶詰工場で買った同じブランドのソーダ瓶が一本だけ置かれている。
彼は静かに目を閉じ、心拍を意図的に上げていく。グラフが上昇し、画面に映る彼の瞳孔がゆっくりと緑色に変わる。ハルクの咆哮は今回、激情ではなく長い呼吸のように響く——彼はカルバー大学で愛する人を傷つけた怪物から、ハーレムで愛する人の声に従って手を緩めた知性体へ、そしてついに、自分の意思で「もう一度」獣の側へ降りていける男へと辿り着いた。
ベラ・クーラのキャビンには電話線も電灯も通じていない。彼が今後、自分の身体とどのように折り合いをつけ、ロス将軍やスターンズやアボミネーションの行方とどう向き合うのかは、本作では明示されない。彼はただ、自分の中の獣に対して、初めて握手を試みようとしている。
ポストクレジット——“アベンジャーズ計画”の使者
本編のエンドロールが流れ終わる前、画面はアメリカ西海岸の薄暗いバーへ切り替わる。カウンターでウィスキーを呷っているのは——軍服の上着を脱ぎ、髭の伸びた憔悴の表情のロス将軍。彼の隣の高椅子に、上品なスーツに身を包んだ男が腰掛ける。トニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)である。
トニーは前置きなしに切り出す——「あなたの問題(プロブレム)について耳にしたよ」。ロス将軍は嫌悪を隠さない口調で応じる——「君が抱えている問題こそ、上司に頼んだほうがいい問題のはずだ」。トニーは答える——「もしも“私たちはチームを組もうとしている”と言ったら、どう思う?(What if I told you we were putting a team together?)」。ロスの視線が初めて、隣の男にしっかりと向く。
この僅か40秒の場面が、本作のポストクレジットとして果たす機能は決定的に大きい。『アイアンマン』のポストクレジットでサミュエル・L・ジャクソン演じるニック・フューリーが「アベンジャーズ計画」を口にした瞬間に始まった、後年の集合篇に向けた長大な物語は、本作のポストクレジットで初めて、二つの単独作の世界が「同じ現実」であることを観客に公式に伝える。本作は商業的には『アイアンマン』の影に隠れた一作だが、MCUの世界線を初めて編んだ作品の一つでもある。
登場要素
本作に登場・言及される主要な要素を分類して示す。冷戦期超人兵士計画の現代版という前史、ハルクのオリジン譚で導入されたガンマ照射装置、サミュエル・スターンズの研究室の試薬瓶など、後年のMCU作品にも反復・呼応する固有名詞が多い。
主要人物
- ブルース・バナー博士/ハルク
- エリザベス・“ベティ”・ロス(細胞生物学者)
- サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍
- エミル・ブロンスキー大尉(後のアボミネーション)
- サミュエル・スターンズ博士(“ミスター・ブルー”、リーダーの萌芽)
- レナード・サムソン博士(ベティの新しいパートナー)
ヴィラン
- エミル・ブロンスキー/アボミネーション
- サンダーボルト・ロス将軍(敵対的軍部上層部の象徴)
- サミュエル・スターンズ(科学的好奇心の暴走)
サポート
- ロシーニャの太極拳老師(呼吸法の師)
- 瓶詰工場の同僚マルティナ
- イノセンス(リオでブルースを匿う名もなき隣人たち)
- グレイバーン大学の研究室スタッフ
組織
- 米陸軍バイオフォース・エンハンスメント・プロジェクト(超人兵士計画の現代版)
- 米陸軍特殊作戦部隊
- 英陸軍特殊空挺部隊(SAS/ブロンスキーの出身部隊)
- グレイバーン大学細胞生物学研究所
- カルバー大学(事故と再会の舞台)
場所
- リオデジャネイロ・ロシーニャ(潜伏地)
- ソフトドリンク瓶詰工場(最初のハルク覚醒地)
- グアテマラ国境地帯
- カルバー大学キャンパス(事故と二度目の覚醒地)
- ヴァージニア州の雨の山小屋
- グレイバーン大学細胞生物学研究所(アボミネーション誕生地)
- ハーレム大通り(決戦地)
- ベラ・クーラの森奥のキャビン(結末地)
アイテム・技術
- 心拍計付きリストデバイス
- ガンマ線照射装置(カルバー大学の事故元)
- 弱体化版スーパー・ソルジャー血清
- ブルース・バナーのガンマ変異血液サンプル
- 暗号化メール経由のミスター・ブルー連絡網
- ソフトドリンクの瓶(汚染拡散の媒介)
- 対戦車ミサイル発射台(カルバー大決戦で運用)
- 警察用大型鉄鎖(ハーレム決戦で即席武器化)
能力・概念
- ガンマ変異による超人化
- 怒気・心拍上昇による変身トリガー
- 呼吸法による変身回避
- スーパー・ソルジャー血清との重ね合わせの危険性
- アボミネーション化(不可逆な歪み)
- “リーダー”誕生の萌芽(頭脳の異常肥大化)
- 意志的変身(結末でブルースが獲得する境地)
ポストクレジット要素
- トニー・スタークによるロス将軍訪問
- 「アベンジャーズ計画」への直接的言及
- MCU第1作『アイアンマン』との明示的接続
主要登場人物
本作の人物造形は、原作・テレビシリーズ・2003年版で繰り返し描かれてきた「孤独な逃亡者」という像を継承しつつ、現代的なバイオハザード・スリラーの語彙のなかに置き直されている。各員の選択は単純な善悪に切り分けられず、互いの傲慢・後悔・恋情が、本作の物語の動力源となっている。
ブルース・バナー博士/ハルク(エドワード・ノートン)
本作のブルースは、天才科学者であると同時に、自分の意志を裏切る身体を持つ男として描かれる。リオの瓶詰工場で心拍を抑え、ポルトガル語で「No me jodas(揉めごとを起こすな)」と諭す場面、雨の山小屋でベティに毛布をかけ直す場面、ヘリから「私を落としてくれ」と叫ぶ場面、そしてベラ・クーラの森で自ら緑の瞳を選ぶ最後のショット——いずれも、彼が「自分の中の獣との関係を、避けるのではなく結ぶ」へ少しずつ歩を進めていることを示す。
エドワード・ノートンは本作で主演を務めるだけでなく、現場での脚本加筆にも深く関与した。彼の関与は、ブルースの内省的な独白、太極拳の師との静かなシーン、ベティとの再会場面のテンポなど、本作の「静けさ」の側面に強く反映している。本作後、ノートンとマーベル・スタジオは編集方針を巡って対立し、続編・集合篇での再登板は実現しなかったが、彼の演技の細部は今なお高く評価されている。
後年、ブルース/ハルク役は『アベンジャーズ』(2012)以降マーク・ラファロが引き継ぐ。本作は実写MCUにおける「ノートン版バナー」の唯一の主演作であり、その意味でも独立した記憶として愛され続けている。
エリザベス・“ベティ”・ロス(リヴ・タイラー)
本作のベティは、原作とテレビシリーズで繰り返し描かれてきた「ハルクの精神的拠り所」という像を、現代の自立した研究者像へ更新したものとして提示される。父・ロス将軍との緊張関係、サムソン博士との新しい関係、そしてブルースとの再燃する旧情——この三角形の中で、彼女は常に自分自身の判断で動き続ける。
リヴ・タイラーの演技は、台詞を控えた瞬間にこそ強く効く。再会の夜、雨に濡れたブルースの肩を抱きしめる短い動作、雷雨の山小屋でブルースが眠るのを見守る静かなカット、ハーレム決戦の最終局面で「ブルース!」と叫んでハルクの腕を止める一声——いずれも本作の感情の振り子を決定する場面である。
後年のMCUでは、ベティ役は実写としては本作以降長らく不在のままだったが、Disney+ドラマシリーズ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)のラスト周辺で名前が言及され、世界線への接続が静かに保たれた。
サディアス・“サンダーボルト”・ロス将軍(ウィリアム・ハート)
ロス将軍は、本作において単なる軍部の悪役ではなく、「自分の作った怪物に追われる父親」として造形される。娘の婚約者を被験体にし、事故を起こさせ、その娘と長く疎遠になった男。観客はバーでウィスキーを呷る彼の最後の表情に、勝利ではなく敗北と疲弊を見る。
ウィリアム・ハート(1950–2022)は、本作で硬質な低音と疲れた瞳でロスを演じ、後年『シビル・ウォー』(2016)、『ブラック・ウィドウ』(2021)、Disney+ドラマ『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』(2021)まで同役を継続した。彼の死後、本作と同一人物としてのロス役は、ハリソン・フォードが『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)以降引き継いでいる。
本作のロスの選択——娘の安全のために怪物を組み立て、結果として娘を二度失う——は、MCU全体を通じてロス将軍という人物の業を規定する起点となる。
エミル・ブロンスキー/アボミネーション(ティム・ロス)
本作のブロンスキーは、加齢に苛立つ最前線の兵士という素朴な姿から、自分の身体に薬剤を上書きし続けるうちに、最終的に人間の輪郭を失っていく男として描かれる。リオの瓶詰工場での屈辱、カルバー大学での骨折、グレイバーン大学のガラス円柱——彼の三つの転機は、いずれも「あの力が欲しい」という単純な渇望から生まれる。
ティム・ロスの低い声と細い身体が、薬剤で膨張するアボミネーションの怪物的造形と対比されることで、本作のヴィラン造形は深い影を獲得する。彼の最後の咆哮は、勝利の叫びではなく、自分が選んだ取引の不可逆性を初めて理解した男の悲鳴のようにも聞こえる。
ブロンスキーの後日譚は、Disney+ドラマ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)でティム・ロスの再演とともに描かれ、本作で生かされて拘束された彼が、長い服役と仮釈放の道を歩む姿が示されている。本作の終盤でハルクが彼の首を折らなかった選択が、後年MCU物語のなかでひとつの伏線として確かに回収される。
サミュエル・スターンズ(ティム・ブレイク・ネルソン)
スターンズは、本作で「ミスター・ブルー」として暗号メール上に現れたあと、研究室の地下で初めて顔を見せる。彼の話し方は早口で、知性を抑え込むことを知らない饒舌で、しかし常に好奇心が倫理の前を走っている。本作の彼は、ブルースを救おうとする者でありながら、同時に「ブルースのような身体」を自分の手で量産することにも引き寄せられている。
額に飛んだ一滴のガンマ血液は、後年のMCUで彼が「リーダー」へ変貌する起点である。原作のリーダーは知能の異常肥大化と緑色の頭部の膨張を特徴とするハルクの宿敵であり、本作の終盤のカットはその誕生を観客に明示的に予告する。彼の後日譚は、長らく未回収のまま続いたが、ティム・ブレイク・ネルソンは『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)で同役を再演し、本作の伏線を約17年越しに引き取った。
舞台と用語
本作の舞台は2008年の現代地球——MCU主世界(Earth-199999)。リオデジャネイロ郊外ロシーニャ、グアテマラ国境地帯、ヴァージニア州のカルバー大学キャンパス、ニューヨーク・グレイバーン大学細胞生物学研究所、ハーレム大通り、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ベラ・クーラの森奥——本作の場所は逃亡者の心象を反映するように、世界各地に分散している。
用語面では、ガンマ線、スーパー・ソルジャー血清、超人兵士計画、ガンマ変異、アボミネーション、リーダー、心拍トリガー、意志的変身、ミスター・ブルー、ロシーニャ、カルバー大学、グレイバーン大学が鍵となる。とくに「スーパー・ソルジャー血清」は、本作で『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』との接続を予告するキーワードとして機能する——本作のロス将軍が言及する「第二次大戦期の計画」は、後の本作世界での意味づけにとって決定的な伏線である。
MCU全体のフェーズ構造のなかで、本作はフェーズ1の第2作にあたる。後年マーク・ラファロ版バナーが『アベンジャーズ』『エイジ・オブ・ウルトロン』『ラグナロク』『インフィニティ・ウォー』『エンドゲーム』『シー・ハルク』へと引き継ぐ物語の、ノートン版による最初の一行を、本作は静かに書き残している。
制作
本作はマーベル・スタジオがMCU第2作として企画し、ユニバーサル・ピクチャーズが配給する形で製作された。2003年版アン・リー監督『ハルク』のソフトリブートとして当初構想されたが、最終的にはオリジン譚を意図的に省略し、独立した新作として組み立てられた。以下、企画から特撮までの主要な経緯を整理する。
企画と脚本
マーベル・スタジオは2006年、ユニバーサル・ピクチャーズと交渉し、長期休眠中だったハルク映画化権を本作のみ自社製作で再起動することに合意した。ユニバーサルは単独ハルク作品の劇場・ソフト配給権を継続保有することを条件に企画に同意し、結果として現在に至るまでハルク単独の劇場作品は本作以降未製作のままである。
脚本はザック・ペン(『X-MEN:ファイナル・ディシジョン』『リプレイ』)が主筆を担い、初稿段階では2003年版『ハルク』との連続性を示唆するシーンも含まれていたとされる。主演に決定したエドワード・ノートンは、自身の演技哲学に従い、現場で大幅な台詞・場面の加筆を行った。最終クレジットは全米脚本家組合(WGA)裁定でペン単独となったが、本作の静かな内省パートの多くはノートンの手によるとされている。
監督ルイ・レテリエ(『ジェイソン・ステイサム主演トランスポーター』シリーズ、『ダニー・ザ・ドッグ』)は、フランス出身で人物の身体性を捉える演出に定評がある。彼は本作で、ハルクのCGアクションを必要以上に派手にせず、ファヴェーラのパルクール的追跡、カルバー大の昼間の混戦、ハーレムの夜の長尺バトルといった三つのアクションを、明確に異なる演出語彙で組み立てた。
キャスティング
主役ブルース・バナーには、当初マーク・ラファロを含む複数の候補が検討された後、エドワード・ノートンに決まった。ノートンは『ファイト・クラブ』(1999)『プリミティブ・ジャングル』『真実の行方』(1996)などで知性派俳優としての地位を確立しており、本作のブルースに必要な「鬱屈と暴発を行き来する科学者」の像に最適と判断された。
ベティ・ロス役にはリヴ・タイラー(『パール・ハーバー』『ロード・オブ・ザ・リング』三部作)、ロス将軍役にはアカデミー賞俳優ウィリアム・ハート(『蜘蛛女のキス』『ヒストリー・オブ・バイオレンス』)、ブロンスキー役にはティム・ロス(『パルプ・フィクション』『ヘイトフル・エイト』)、スターンズ役にはティム・ブレイク・ネルソン(『オー・ブラザー!』『リンカーン』)が起用された。シェイクスピア劇の経験を持つ役者陣が、本作の人物関係に演劇的な重みを与えている。
ポストクレジットのトニー・スターク役には、わずか5週間前に公開されたばかりの『アイアンマン』からロバート・ダウニー・Jr.が続投出演。マーベル・スタジオ社長ケヴィン・ファイギは、この40秒のシーンを本作後半の編集と並行して急遽組み込み、二作の世界を結ぶ最初の橋とした。スタン・リーは汚染ソーダを飲んで救急搬送される男としてカメオ出演、ルー・フェリグノ(1977年版テレビシリーズのハルク役)は瓶詰工場の警備員役でカメオ出演し、ハルクの叫び声の一部にも彼の声が用いられている。
撮影とロケ地
主要撮影は2007年7月から11月にかけて、カナダ・オンタリオ州トロントを拠点に行われた。本作のロケ地は、トロント大学とブロック大学(カナダ)がカルバー大学キャンパスとして、トロント市街地の数ブロックがハーレム大通りとして、それぞれ転用されている。リオデジャネイロ・ロシーニャでの撮影は実地で行われ、住民エキストラを起用したパルクール的追跡劇は本作の見せ場のひとつとなった。
撮影監督ピーター・メンジス・ジュニア(『キング・アーサー』『ラスト・サムライ』)は、本作の三つの主要アクション場面それぞれに異なる色温度と質感を割り当てた。ロシーニャは強い夕陽の橙色と長い影、カルバー大の昼間決戦は乾いた緑と土埃、ハーレム決戦の夜は雨に濡れたアスファルトの黒と街灯のナトリウム橙——色彩設計の徹底が、本作の地理的多様性を支えている。
瓶詰工場のシークエンスはトロント郊外の実際の飲料工場を借り切って撮影され、ノートンとロスの一部の高所アクションはスタント・ダブルを最小限に抑え、本人撮影が中心に行われた。雨の山小屋シークエンスは天候を待つのではなく、強い人工雨と低温の照明で「冷たさ」を作り込んでいる。
視覚効果
本作の視覚効果は、リズム&ヒューズ・スタジオを主担当に、Hydraulx、Image Engine、Soho VFX、CIS Hollywoodなど複数のスタジオが分担した。最大の負荷は、ハルク本体とアボミネーション本体のフル・キャラクター・アニメーション、そしてカルバー大決戦とハーレム決戦の市街地ディストラクション、ガンマ照射装置のホログラム・インターフェイスである。
ハルクの造形は、2003年版『ハルク』の鮮やかな緑とは異なり、よりくすんだ暗緑色と多層的な筋繊維のシェーダーで構築された。身長はおよそ2.7メートル前後と設定され、観客の身体感覚で「巨大すぎて非現実的にならず、しかし圧倒的に大きい」境界線を狙ったとされる。フェイシャル・アニメーションはエドワード・ノートンの表情をベースに、ハルクの怒りの瞬間にもブルース本人の眼差しの記憶が残るよう設計された。
アボミネーションの造形は、ハルクの均整を意図的に崩した「歪んだ巨人」として作り込まれた。背骨の突起、額の四本の角、裂けた顎、鎧のような皮膚の襞——いずれも原作アボミネーションのデザインを尊重しつつ、ティム・ロスの細い顔と低い声を残すフェイシャル設計が行われている。ハーレム決戦の市街地ディストラクションは、当時としては大規模なミニチュア・シミュレーションとCGビル群の合成で構築された。
音楽と音響
音楽はクレイグ・アームストロング(『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』)が担当した。彼のスコアは、本作の三つの場所(リオの郊外、ヴァージニアの大学、ハーレムの夜の街)にそれぞれ別の音色領域を割り当てるアプローチを取る。リオは弦のピチカートと打楽器のラテン的脈動、カルバー大は弦の長いラインと金管の警告音、ハーレムは低音シンセサイザーと打楽器の連打——音楽の地理的設計が、画面の地理的多様性と完全に同期する。
1977年版テレビシリーズ『The Incredible Hulk』の主題曲「The Lonely Man」(ジョー・ハーネル作曲)のピアノ・モティーフが、本作のラストの一場面で短く引用される——ブルースが孤独な道を歩み続けることを暗示する選曲であり、原作・テレビシリーズの長い歴史への敬意を込めた目礼として、本作の批評で広く言及された。
音響デザインも、ハルクの咆哮にルー・フェリグノの実演声をベース層として混ぜ込むなど、本作の歴史的位置を音の層で示す試みが行われている。アボミネーションの咆哮はそれとは異なる金属質の倍音を加え、二体の巨人を観客の耳の中で明確に区別できるよう設計されている。
編集と公開準備
編集はジョン・ライト、リック・シェイン、ヴァンサン・タバイヨンの三名が担当した。劇場版は112分に整えられているが、ノートンが初期段階で提案した長尺バージョンは135分前後に達していたと伝えられ、内省的なシーンや太極拳の師との対話シーンの大半が短縮された。マーベル・スタジオ側は「大衆向けのテンポ」を、ノートン側は「人物の内面の厚み」を主張し、最終的に前者の方針が採用された。
この編集方針を巡る対立は、ノートンとマーベルの関係に深い亀裂を残した。続編・集合篇でのブルース役は最終的にマーク・ラファロが引き継ぐことになり、ノートン版バナーは本作一作で完結する。後年、本作のソフト版でも完全な拡張カットは公式リリースされておらず、削除シーンの一部のみがDVD特典として収録されているにとどまる。
ポストクレジットのトニー・スターク登場場面は、本編完成後のごく短期間で追加撮影・編集された。ケヴィン・ファイギは後年のインタビューで、この40秒が「MCUを単発の二作から長期連作へ転換するスイッチだった」と語っている。
公開と興行
本作は2008年6月8日にロサンゼルスのギブソン・アンフィシアターでワールド・プレミアが行われ、米国では同年6月13日に劇場公開された。日本では『インクレディブル・ハルク』の邦題で2008年8月1日に劇場入りした。直前の『アイアンマン』(5月2日米国公開)と合わせて、夏興行二発の連打で新生マーベル・スタジオの存在感が一気に確立した。
全世界興行収入は約2億6,360万ドル(北米約1億3,460万ドル/海外約1億2,900万ドル)に達し、製作費約1億5,000万ドルに対して堅実な黒字を確保した。2003年版『ハルク』の全世界約2億4,500万ドルを上回り、長く低迷していたハルク映画化権を、商業的に再起動することにも成功した。
批評筋ではRotten Tomatoes批評家評価が67%前後、Metacriticでも中央値水準のスコアを獲得した。批評家の多くは、エドワード・ノートン、ティム・ロス、ウィリアム・ハートの演技、本作の三つのアクション場面の練り込み、そしてポストクレジットでの『アイアンマン』との接続を評価しつつ、脚本の小気味よさやハルク自体のCG表現に対しては賛否が分かれた。
批評・評価・文化的影響
本作はMCU長期連作の「第一の鈎」として、商業・物語の両面で重要な役割を果たした。ポストクレジットでトニー・スタークが直接ロス将軍に接触する場面は、当時の観客にとって「二つの単独作の世界が同じ現実だ」という衝撃を伴い、後の『アベンジャーズ』(2012)に向けた長い助走の決定的な一歩となった。
公開から長く、本作はノートンの離脱を巡る経緯と、MCU全体での主役の引き継ぎという特殊な事情のために「MCUの異物」「家系図のなかの兄弟」と扱われる場面が多かった。だが2010年代後半以降、フェーズ1全体を観返す視点が広がるにつれ、本作の三つのアクション場面の演出の完成度、ティム・ブレイク・ネルソンとティム・ロスの伏線、ロス将軍の長い物語の起点としての重みなどが再評価されるようになった。
とりわけ、ティム・ブレイク・ネルソンのサミュエル・スターンズが約17年後に『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)で再登場したこと、ティム・ロスのブロンスキーが『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)で再演されたこと、ロス将軍の物語が『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』までハリソン・フォードに引き継がれて続いていること——これらの「長い回収」が、本作の存在感を年々強めている。
舞台裏とトリビア
本作の冒頭タイトル・シークエンスには、米陸軍の旧研究施設として描かれる場面のなかで、第二次大戦期に冷凍保存された人物——後年『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』(2011)で本格的に紹介されるスティーブ・ロジャース——を仄めかすカットが含まれる予定だったが、最終的には削除された。スーパー・ソルジャー血清への直接言及は、ロス将軍がブロンスキーへ「第二次大戦期の計画の派生」と告げる台詞のなかに残されている。
瓶詰工場の場面でスタン・リーが演じる「汚染ソーダを飲む老人」は、本作のMCUカメオ群の中でも最も明示的に「世界の物理を動かす」カメオの一つである。彼が飲む一口が、本作の物語を本格的に駆動する引き金となる。並んでカメオ出演しているルー・フェリグノは、1977年版テレビシリーズで5シーズン以上ハルクを演じた俳優であり、本作の警備員役は原作・映像史への目礼となっている。
本作のハーレム決戦で、ハルクは折り取った警察車両の鉄鎖の両端を炎で焼いて溶接し、即席の鎖鎌を作る。この一連の動作はノートンが現場で提案したアイデアの一つで、レテリエ監督によって実装された。後年のラファロ版ハルクと比較したとき、本作のハルクの戦闘設計はより「即興の道具」を多用する点で性格的に異なる。
本作の編集を巡るマーベル・スタジオとノートンの対立は、後年のマーベル・スタジオの「演出は監督・スタジオの最終判断とする」原則の起点として広く語られている。ノートン自身は本作以降のMCU作品には登板していないが、彼の演技と現場での加筆作業は、本作のなかに静かに残されている。
テーマと解釈
本作の中心テーマは「自分の中の獣との取引」である。怒りで暴走する身体を抑え込むのか、克服するのか、それとも友好関係を結ぶのか——本作の前半でブルースは「抑える」、中盤で「諦めて爆発する」、後半で「選んで降りていく」と、自分の獣との関係を三段階で書き換える。ベラ・クーラのキャビンで彼が自ら緑の瞳を選ぶ最後のカットは、本作の全編がこの三段階の物語であったことを観客に示す。
もう一つの軸は、軍事と科学の癒着である。冷戦期の超人兵士計画の現代版という前史、ロス将軍とブロンスキーの取引、スターンズの研究室での過剰な実験——本作は「身体を強くする科学」が「身体を兵器化する政治」と切り離せないことを、繰り返し示す。アボミネーションは、その癒着が生んだ最も極端な結果として描かれる。
そして三つ目は、家族と疎隔である。ベティとロス将軍の長い疎遠、ブルースとロス将軍の二重の対立、ベティとブルースの不可能な未来——本作の人物関係はすべて、ある種の家族が壊れる過程と、もう一度繋ぎ直そうとする試みのなかにある。ハーレム決戦の最後でハルクがロスに長い視線を投げかけ、自分の腕にベティを抱えたまま去っていく数秒は、本作の家族のテーマの帰結として静かな重みを持つ。
見る順番(補助)
MCU公開順では、本作の直前作は『アイアンマン』(2008年5月)、直後作は『アイアンマン2』(2010年5月)である。公開時期は同年6月で、二作の『アイアンマン』に挟まれる位置にある。MCU時系列順で観る場合も、両者の間に本作を置く整理が一般的である。
本作のポストクレジットでトニー・スタークがロス将軍に「アベンジャーズ計画」を告げる場面は、後の『アベンジャーズ』(2012)への直接的な接続として観賞順に強く影響する。並行して、本作のサミュエル・スターンズは『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)、エミル・ブロンスキーは『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)、ロス将軍は『シビル・ウォー』(2016)から『ブレイブ・ニュー・ワールド』までへ、それぞれ長い伏線の回収の道筋を持つ。
- 前作(公開順の直前)『アイアンマン』(2008)
- 本作ブラジル潜伏/カルバー大決戦/ハーレム決戦/アボミネーション戦/ベラ・クーラの覚醒
- 次作(公開順の直後)『アイアンマン2』(2010)
- 長期回収(人物:スターンズ)『キャプテン・アメリカ/ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)
- 長期回収(人物:ブロンスキー)Disney+『シー・ハルク:ザ・アトーニー』(2022)
- 長期回収(人物:ロス将軍)『シビル・ウォー』(2016)/『ブラック・ウィドウ』(2021)/『ブレイブ・ニュー・ワールド』(2025)
よくある質問(補助)
「あらすじだけ知りたい」場合は、リオでの潜伏、瓶詰工場の襲撃と最初のハルク覚醒、カルバー大学での二度目の覚醒、ニューヨークでのサミュエル・スターンズとの接触、ブロンスキーのアボミネーション化、ハーレム決戦、ベラ・クーラでの自発的変身、というおおまかな七段で十分である。「結末を知りたい」場合は、ハルクがアボミネーションをベティの一声で生かしたまま倒し、ベラ・クーラの森奥で自分の意思で緑の瞳を選び、ポストクレジットでトニー・スタークがロス将軍に「アベンジャーズ計画」を持ちかける——この三点を押さえれば物語の決着は把握できる。
「ノートン版バナーとラファロ版バナーは同一人物か?」という質問には、MCUの公式設定では「同一人物」と扱われる、と答えるのが最も正確である。本作以降の作品でブルース役はマーク・ラファロが担うが、本作で描かれたガンマ事故・ロス将軍との関係・ベティとの旧情・スターンズの伏線などはいずれも公式設定として継承されている。
「ユニバーサル・ピクチャーズはなぜ配給に名を連ねているのか?」という質問には、ユニバーサルが2000年代初頭から保有していたハルク映画化権のうち、単独ハルク作品の劇場・ソフト配給権を現在も保持しているため、と答えるのが正しい。マーベル・スタジオはチーム作品でハルクを使用することは自由だが、ハルク単独の劇場映画を新たに製作する場合、ユニバーサルとの再交渉が必要となる構造が続いている。
参考資料・脚注
作品名、キャラクター名、画像、各種権利はそれぞれの権利者に帰属する。公開年・興行・制作・配信状況・外部評価は変動しうるため、視聴前に公式および各データベースの最新表示を確認されたい。本記事の本文は各種公開情報をもとに、Anna Movies用の独自の日本語文章として構成している。
参照・確認先
公式画像、作品名、キャラクター名、権利は各権利者に帰属する。公開年、配信状況、外部評価は変わる場合があるため、視聴前に公式・配信元・作品データベースで確認したい。