鹿目タツヤは、鹿目まどかの弟であり、詢子と知久の幼い息子である。家族からは「たっくん」と呼ばれ、朝食や遊びを通して鹿目家の日常を明るくする。世界改変後も、歴史から消えたまどかの姿と名前をわずかに感じ取るため、宇宙規模の変化の中に残った家族の記憶を示す人物でもある。担当声優は水橋かおり。
鹿目家の幼い弟
タツヤは就学前の幼い子どもで、短い茶色の髪と活発な動きが特徴である。言葉はまだ幼く、家族との会話も短いが、朝の家ににぎやかさを加える。まどかは姉として身支度や食事を気に掛け、二人の間には自然な親しさがある。
第1話では詢子を起こそうとし、家族全員で朝食を取る。魔女の結界や戦闘とは無関係なこの場面が先にあることで、まどかが失いたくない生活を観客も具体的に理解できる。タツヤは守られるだけの記号ではなく、家族の時間を作る一員である。

幼いため、学校で起きていることも魔法少女の契約も知らない。まどかが悩んでいても原因を尋ねる立場にはなく、いつもどおり姉へ接する。この無条件の日常性が、秘密を抱えたまどかを家庭へつなぎ留めている。
まどかとの姉弟関係
まどかはタツヤの世話を義務として嫌がらず、朝の慌ただしさも含めて家族との時間を大切にしている。弟へ向ける態度には、困っている相手を放置できない彼女の性格が、魔法少女になる前から表れている。
タツヤは姉の決断を理解して助言する人物ではない。それでも、まどかがすべての時間軸の魔法少女を救う願いへ進む際、守りたい人間の一人として存在する。抽象的な人類ではなく、名前と顔のある家族がまどかの倫理の足元にいる。

姉弟が激しく喧嘩する場面はなく、作品は二人の関係を大きな事件にしない。大切さが言葉で強調されないからこそ、第12話でまどかが家族の記憶から消えた後、失われた関係の重さが静かに伝わる。
日常場面が持つ意味
タツヤが登場する朝食や遊びの場面は、物語の緊張を一時的に緩める。同時に、魔法少女たちが守ろうとする社会が、抽象的な街ではなく、食事をし、絵を描き、家族と話す時間でできていることを示す。
魔女の結界では、人間の苦しみや欲望が異形の風景へ変わる。対して鹿目家では、子どもが物を散らかし、大人が片付け、翌朝も生活が続く。タツヤの未完成で予測できない行動は、閉じた象徴ではなく、未来へ続く生活を感じさせる。

作品内の子どもは、宇宙のエネルギー問題や契約制度の犠牲を理解しない。理解していない人々も含めて世界を救うのかという問いに対し、まどかは最終的に、知識や立場を問わず魔法少女の希望を守る願いを選ぶ。
第12話:まどかを描く子ども
世界改変後、タツヤは公園でピンク色の髪をした少女を描き、「まどか」と呼ぶ。人間としてのまどかは歴史から消え、詢子と知久も娘を覚えていない。それでも幼いタツヤには、姉の姿と名前が遊びの中へ残っている。
タツヤが改変前の出来事を論理的に記憶しているとは限らない。ほむらのように時間軸を保持しているのではなく、見えない友達を描く幼児の感覚として表現される。確かな記憶と断定せず、関係の余韻が残った場面として読む必要がある。

詢子は「まどか」という名前へ不思議な親しさを感じるが、具体的な人物は思い出さない。タツヤの絵が家族へ名前を戻すことで、完全に消えたはずの存在が短い会話の間だけ共有される。宇宙法則と家庭の記憶が交差する場面である。
ほむらとの出会い
改変後の世界で、ほむらはタツヤがまどかを描く姿を見る。ほむらだけは改変前のまどかを覚えているため、子どもの絵を単なる想像として扱えない。タツヤの何気ない遊びが、ほむらにとっては失われた友人が確かに存在した証明になる。
二人の情報量は正反対である。ほむらはまどかの願いと時間軸を知り、タツヤは説明できる記憶を持たない。しかし、どちらも世界から消えた人物を感じ取る。知識と感覚が一つの絵を介して並べられる。
ほむらがまどかのリボンを身に着けて戦い続ける選択にも、家族の存在が影響する。タツヤが無意識に姉を残す姿は、ほむらが記憶を抱える孤独を少しだけ和らげる一方、戻せない日常を突き付ける。

円環の理と幼い記憶
円環の理は、過去と未来の魔法少女を魔女化の直前に導く宇宙法則である。人間のまどかが歴史から消えた結果、家族の記憶も再構成される。タツヤの描写は、その法則が関係の痕跡まですべて均一に消したわけではない可能性を示す。
ただし、タツヤが円環の理を見たり理解したりできると明言されてはいない。幼児が見えない友達を語ることと、超常的な知覚は区別する必要がある。作品は答えを固定せず、忘却の中にも愛着が残るイメージとして場面を置いている。
成長すればこの感覚も失われるかもしれないという儚さが、場面の悲しさを強める。記憶が永続する保証がないからこそ、絵を描いている瞬間そのものが大切になる。タツヤは、救済後にも残る喪失を最も小さな形で表す。

『叛逆の物語』の結界内
『叛逆の物語』では、タツヤは詢子、知久、まどかと同じ家で暮らしている。TVシリーズ第12話では成立しない四人家族の朝が戻っているため、観客には幸福な日常として見える。だが、その見滝原はほむらのソウルジェム内に作られた結界である。
インキュベーターは、ほむらと関係の深い人々を結界へ誘導している。タツヤも架空の複製ではなく、外部から取り込まれた人間の一人として扱われる。幼い子どもまで実験へ巻き込まれていることが、遮断空間の非倫理性を示す。
タツヤ自身は異常を認識せず、家族との生活を続ける。結界の幸福が本人にとって偽物だとは言えない一方、その環境を選ぶ自由はない。映画は、感じられる幸福と、それを作った仕組みの問題を同時に残す。

再改変後の鹿目家
映画終盤でほむらが世界を再改変すると、まどかは人間として鹿目家へ戻される。タツヤにとっては姉がいる生活が成立し、TVシリーズ最終話で失われた関係が回復したように見える。家族の朝は、ほむらがまどかへ与えようとした幸福の中心である。
しかし、この世界はまどか自身が最終話で選んだ円環の理から、人間部分を切り離して作られている。タツヤの幸福が明白でも、そのために姉の決断を上書きしてよいかは別の問題である。家族の存在が、ほむらの選択を単純な善悪にできなくする。
タツヤは再改変の経緯を知らないため、判断の当事者ではない。知らない人物の幸福を理由に、別の人物の意思を変えることの難しさが残る。日常の象徴である幼い弟が、続編の倫理的な対立へ間接的に関わっている。

物語上の役割
タツヤは魔法を使わず、物語の決定を下さない。それでも、まどかが一人の少女として生きた痕跡を、最も制度から遠い場所で残す。大人の記憶や宇宙の記録より、子どもの絵が失われた人物を伝える構図である。
また、守られる側にも固有の生活があることを示す。魔法少女が守る「人々」を数字にせず、遊び、言葉、家族関係を持つ一人として見せる。まどかの願いが大きくなるほど、タツヤの小さな日常が判断の基準になる。
この人物を特別な能力者へ広げるより、幼さゆえに説明を持たない存在として読む方が、作品内の役割に合う。分からなくても誰かを覚えている。その一瞬が、救済によって消えたまどかと世界をつないでいる。

言葉より先に残るもの
タツヤは、まどかの存在を文章や記録で説明せず、絵と短い名前で表す。世界改変を理解する言葉がないため、感じたものを遊びとして外へ出す。大人が論理的に否定できない形で、失われた関係が家庭へ戻ってくる。
この表現は、魔法少女の感情を効率だけで測るキュゥべえの姿勢と対照的である。説明や計算ができなくても、人にとって意味のある感覚は存在する。タツヤの絵は、宇宙規模の合理性からこぼれる個人的な記憶を守る。
ほむらは絵の意味を知っているが、タツヤへすべてを説明することはできない。知識の差を埋める会話ではなく、同じ人物を別の形で感じる短い出会いになる。作品は、完全な共有がなくても関係の痕跡を受け渡せることを示す。
