偽街の子供達は、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』に登場するホムリリィの使い魔である。英語名はクララドールズ。葬列を盛り上げる「泣き役」を務め、十四体は暁美ほむらの否定的な感情を思わせる名を持つ。最後の一体「愛」だけが到着していないという設定が、物語終盤の選択へつながる。
偽街の子供達の基本情報
分類はホムリリィの使い魔、役割は泣き役。着せ替え人形の姿で涙の芝居を演じ、終わらない葬列をにぎやかにする。かわいらしい外見と、葬儀に参加する不穏な役割が同居する。
作中では立体的な人形姿、紙人形のような姿、影として投射された姿を使い分ける。場面によって目の有無や質感も変わり、結界の遊戯と現実への侵入を視覚的に区別する。
単独の魔法少女ではなく、複数の個体から成る集団である。全員を同じ「人形」とまとめるだけでなく、名前、動作、登場段階を分けると、ほむらの内面を細かく読める。

十四体の名前と感情
登場する十四体は、イバリ、ネクラ、ウソツキ、レイケツ、ワガママ、ワルクチ、ノロマ、ヤキモチ、ナマケ、ミエ、オクビョウ、マヌケ、ヒガミ、ガンコである。
それぞれ、威張り、陰気、嘘、冷血、身勝手、悪口、鈍さ、嫉妬、怠惰、見栄、臆病、愚かさ、僻み、頑固さを人形の名へしたものと読める。性格も概ね名に対応する。
これらは外部の敵がほむらへ貼った悪口だけではない。ほむら自身が自分へ向ける否定的な評価、あるいは一つの選択に含まれる矛盾を、別々の人形として舞台へ出したものと考えられる。
まだ来ていない十五番目の「愛」
魔女図鑑では、最後の一体「愛」がまだ到着していないと説明される。十四の否定的な感情がそろっても、葬列を完成させる核心だけが欠けている。

『叛逆の物語』終盤でほむらが自分の行為を愛と呼ぶことを踏まえると、未到着は感情の不足ではなく、まだ形を与えられていない状態を示す。愛は他の欠点を打ち消す善ではなく、全体を動かす最後の力になる。
ただし、十五番目が映画内で十四体と同じ姿を持って明確に登場したと断定はできない。設定上の予告と、画面で確認できる個体を分ける必要がある。
ホムリリィとの関係
ホムリリィは暁美ほむらのソウルジェム内に生じた魔女で、役割は刑の執行。自分の葬列を繰り返しながら、ギロチンへ向かう。
偽街の子供達は、その葬列で泣く芝居をする。主を慰めるのではなく、失敗や醜さをあげつらい、儀式を進める。ほむらの自己処罰が複数の声になって付きまとう構図である。

使い魔は主の命令だけで動く単純な手下ではない。魔女の無意識から生まれ、召喚されず現れ、従うことも反発することもある。ほむら自身にも完全には制御できない内面の断片として扱う方が正確である。
偽りの見滝原と舞台
映画前半の見滝原は、ほむらのソウルジェム内に作られた結界である。転校、学校生活、魔獣退治に似た日常が続くが、登場人物の記憶と関係は組み替えられている。
偽街の子供達にとって、この世界の端が舞台になる。町は現実を再現した背景であると同時に、人形たちが悲嘆と嘲笑を演じる劇場でもある。
「偽街」は町の建物が偽物というだけではない。まどかたちが望む生活を守ろうとした結果、本人たちの記憶と選択が制限されている。優しい日常と閉じた結界が同じ場所に重なる。

泣き役という仕事
子供達は本心から悲しむのではなく、葬列を盛り上げるため泣く芝居をする。感情を表す姿と、本当に感じていることのずれが役割に組み込まれている。
ほむらも、仲間へ平静を見せながら一人で記憶を抱え続けた。人形たちの誇張された泣き顔は、外へ出せなかった悲嘆を演劇として代行する。
同時に、芝居の涙は他者の同情を必ず生まない。葬列を美しく整えるほど、誰が死に、なぜ罰を受けるのかが儀式の陰へ隠れる。作品は感情の演出と本人の苦痛を同一にしない。
紙人形と編み針の攻撃
紙人形姿の子供達は、同じ形の編み針を武器として持つ。裁縫の道具が、布をつなぐためではなく打撃と追跡へ使われる。

戦闘では魔法少女に匹敵する力を持ち、単なる背景の飾りではない。集団で現れ、影を作り、位置を変えながら相手を追い詰める。
着せ替え人形と編み針は、ほむらが望む姿へ世界を縫い直すイメージにも通じる。ただし、これは画面と設定を結んだ解釈であり、公式設定として能力名が「世界の縫い直し」と示されたわけではない。
キュゥべえを追う意味
子供達は白い鼠に見立てられたキュゥべえを追い回す。『くるみ割り人形』の鼠退治と、ほむらを観測装置へ閉じ込めたインキュベーターへの敵意が重なる。
追跡は喜劇のように速く、画面へ運動を与える。しかし、背後には円環の理を観測し支配しようとした実験がある。かわいい騒動だけへ切り離すと、誰への報復なのかを見失う。

ほむらが世界を書き換えた後にも、子供達はキュゥべえを低い位置へ追い立てる。主従関係が変わった新世界を、台詞ではなく配置で示す役割を持つ。
『くるみ割り人形』とのつながり
クララは、バレエ『くるみ割り人形』の多くの版で主人公に使われる名である。ホムリリィが「くるみ割りの魔女」と呼ばれることから、クララドールズという英語名が対応する。
原作童話や上演版には複数の差があり、映画の要素を一つの筋書きへ機械的に当てはめることはできない。鼠、くるみ、少女、人形、夜の舞台というモチーフの配置を比較するのが有効である。
人形が受動的な装飾ではなく、舞台を運び、戦い、嘲笑する点も特徴になる。ほむらの物語では、幼い遊びの道具が自律し、持ち主の感情を本人へ突き返す。

悪魔ほむらの世界での姿
ほむらが円環の理からまどかの人間としての記録を分離し、世界を再構成した後も、子供達は消えない。目を持つ人形姿で町を歩き、新しい世界に不穏さを残す。
結界が壊れたから使い魔も消えた、という単純な終わりではない。ほむらはホムリリィの力を拒絶して元の魔法少女へ戻っただけでなく、それを別の形で世界へ統合した。
人形たちが自由に遊ぶ様子は、主が完全に支配した理想郷とも、元の現実へ戻った世界とも違う。秩序は保たれて見えても、無意識の断片が日常へ紛れ込んでいる。
媒体ごとの登場を分ける
中心となる初出は『叛逆の物語』である。設定資料では各個体の名、性格、紙人形時の武器、登場段階が補われ、映画の短いカットを読み分けられる。

『マギアレコード』や『Magia Exedra』では、ゲーム内の敵、演出、記憶に関係する存在として扱われる。同名の個体が複数出るゲーム表現を、映画で十四体しか存在しないという設定変更と即断しない。
今後の作品で姿が確認されても、既発表映像、ゲーム上の実装、本編時系列を区別する。公開前作品の予告に映った要素から結末や正体まで確定しないことが重要である。
形態の違いが示す距離
立体の着せ替え人形は、ほむらのすぐ近くで感情を演じる存在として見える。衣装や表情には個体差があり、十四の名前を持つ集団だと認識しやすい。
紙人形になると、厚みのある身体より記号性が強まり、同じ舞台装置が反復される印象へ変わる。編み針を構える動作も、遊びと処刑の境界を曖昧にする。

影として映る場面では、誰が実体で誰が投影なのかがさらに分かりにくい。偽街そのものがほむらの内面である以上、形態の切り替えは現実と心象の距離を画面上で調整する方法になっている。
偽街の子供達を理解する要点
第一に、十四体は同じ人形の群れではない。否定的な感情の名と個性を持ち、ほむらの自己認識を分割して演じる。
第二に、未到着の「愛」は単純な救いではない。終盤で世界を変える力になり、他者を守る願いと相手の選択を奪う行為を同時に含む。
第三に、かわいい造形と葬列、遊びと攻撃、涙と芝居を対で見る。矛盾を消さずに並べることで、偽街の子供達が『叛逆の物語』の主題を視覚化する存在だと分かる。
