ホムリリィは、暁美ほむらが魔女化した姿である。『魔法少女まどか☆マギカポータブル』の此岸の魔女、『[新編]叛逆の物語』のくるみ割りの魔女、『マギアレコード』のドッペルでは外見と設定が異なる。処刑台へ向かう葬列、偽街の子供達、ロッテ、ほむらが悪魔へ変わる直前の位置付けまで解説する。
ホムリリィとは
ホムリリィは暁美ほむらの魔女名で、英字表記はホムリリィ。時間遡行を重ねたほむらの執着、罪悪感、自己評価が魔女の姿へ変換される。
初出は『魔法少女まどか☆マギカポータブル』の追加資料と特殊なゲームオーバー。後に『叛逆の物語』でデザインと役割を変えて登場した。
同じ名でも媒体ごとに魔女化へ至る条件と世界の法則が違う。複数の形態を一つの時系列へ直結させないことが基本になる。
此岸の魔女
『ポータブル』では「此岸の魔女」と呼ばれる。此岸は仏教語で、悟りの彼岸に対し、執着と苦しみのある現世側を指す。

ほむらがまどかを救うため同じ時間へ留まり続けたことが、渡れない岸のイメージと重なる。時間移動の能力そのものが魔女の性質として公式確定したわけではない。
この形態の性質は作中で明示されない。後年のドッペル名から「閉鎖回路」または「業因」と推測されるが、推論として区別する。
くるみ割りの魔女
『叛逆の物語』では「くるみ割りの魔女」、性質は「自己完結」とされる。かつて多くの種を砕いた勇姿が壊れ、自らの処刑を望む。
ここでいう種はグリーフシードと、くるみ割り人形の木の実を重ねた表現。ほむらが魔女と戦い続けた過去が、魔女自身を罰する行進へ反転する。
首をはねても罪は消えず、此岸で処刑台までの葬列を繰り返すという設定は、自己処罰が救済にならない構造を示す。

『叛逆の物語』の結界
映画で見滝原の少女たちが穏やかな生活を送る世界は、ホムリリィの結界内部に成立している。ほむら自身も当初は結界の主だと理解していない。
キュゥべえは円環の理を観測・支配するため、ほむらのソウルジェムを隔離し、外部からの浄化を妨げる実験を行う。
結界内の幸福は単なる偽物ではなく、参加者の望みと記憶を材料に作られている。心地よさと拘束性を同時に見る必要がある。
ほむらが真相へ至る過程
ほむらは同じ一日が繰り返される違和感、転校生としての記憶、存在しないはずの人物を手掛かりに調査を始める。
杏子と市外へ出ようとして同じ場所へ戻ることで、街全体が閉じた空間だと確認する。外部の敵でなく、自分のソウルジェム内だと気付く。

真相を知った時、ほむらは円環の理へ回収されればキュゥべえがまどかを観測すると考え、救済を拒んで魔女化を進める。
第一形態と処刑の葬列
第一形態は巨大な黒いドレスと帽子をまとい、断頭台へ向かう。身体は崩れ、葬列の先頭にいるはずの本人が同時に処刑対象でもある。
使い魔は行進を飾り、花や棺、楽隊のような要素を運ぶ。祝祭に見える映像と、自己処罰の内容が意図的に食い違う。
ほむらは自分に価値がなく、罰だけが残ったと考える。しかし作中では、さやかが最も傷付いた存在として彼女を見る。自己評価と他者の認識は一致しない。
第二形態とデキソコナイ
戦闘が進むと、歯がこぼれ、頭蓋が溶け、目が落ちた第二形態へ変わる。それでも殻の内側には魔法少女の姿が濃く残る。

頭には「約束」だけが植わり、もう種を砕けない。まどかを守る約束が能力を失った後も本人を縛る。
使い魔たちはこの姿を「デキソコナイ」と呼んで恥じる。完成した魔女へなれないことは、ほむらの人間性が消え切っていない証拠にもなる。
偽街の子供達
偽街の子供達、通称クララドールズは、葬列で泣き屋を務める十四体の人形である。魔法少女に劣らない力を持つ。
イバリ、ネクラ、ウソツキ、レイケツ、ワガママなど、ほむらが自分へ向ける否定的な性質の名を持つ。最後の「アイ」はまだ来ていない。
彼女たちは独立した少女のように動きながら、結界の感情を演じる。全員を一人の性格一覧へ還元せず、使い魔としての役割と個別名を区別する。

ロッテと白い鼠
ロッテはブリキの兵隊を思わせる使い魔で、ホムリリィの処刑を執行する役割を担う。本人を守るのでなく、本人が望む罰を実現する。
白い鼠を憎み、キュゥべえを連想させる対象へ攻撃を向ける。ほむらの怒りが自己処罰だけでなく、実験者へも残っている。
巨大化した個体を含む軍勢は、クララドールズとは異なる秩序で行進を支える。葬列の装飾と軍事的な執行が結界内で重なる。
円環の理による救出
まどか、さやか、なぎさは円環の理の側から結界へ入り、ほむらを孤立した魔女として処分するのでなく、外へ連れ出そうとする。

マミと杏子も結界の真相を知り、使い魔の軍勢へ対抗する。救出はまどか一人の奇跡ではなく、複数の関係が結界を内外から壊す過程である。
ホムリリィを倒すことと、ほむらを救うことが同じ方向へ進む点は、TV版で魔女を元の少女へ戻せなかった状況との大きな違いになる。
悪魔ほむらとの違い
結界が破られ、円環の理がほむらへ手を伸ばした後、ほむらはまどかの人間としての記録をつかみ、宇宙の法則を再構成する。
この後の悪魔ほむらはホムリリィと同じ存在ではない。魔女化の結果に留まらず、円環の理から一部を分離した別の変化である。
ホムリリィの記事では、処刑を望む自己否定と、まどかを奪ってでも守ろうとする反転の境界を示し、二つの姿を混同しない。

『マギアレコード』のドッペル
『マギアレコード』では、暁美ほむらの感情がドッペルとしてホムリリィの意匠を取る。魔女そのものへ不可逆に変わる本編とは仕組みが異なる。
眼鏡姿のほむらと通常のほむらでは、ドッペルの説明や心理の焦点が異なり得る。「閉鎖回路」「業因」という語はこの資料から知られる。
ドッペル名を根拠に『ポータブル』版魔女の性質を推測できても、公式に同一と発表されたとは限らない。確定事項と推論を文章上で分ける。
『マギアエクセドラ』での表現
『マギアエクセドラ』では、英語版で性質がIndependenceと訳される一方、日本語説明は「自己完結」を用いる。訳語だけで新しい性質へ変更されたと判断しない。
説明には、通常では考えにくい規模の使い魔を生みながら未熟な失敗作であり、壊れた人形へ無償の愛を与える者がいれば心は失われ切らない可能性が示される。

この文章は、本人が求める処刑と、他者が差し出す愛の対立を改めて明確にする。戦力値より救済条件を読む資料である。
ホムリリィを理解する要点
ホムリリィは「ほむらの魔女」という一項目に収まらず、ゲーム、映画、ドッペルで異なる制度と心理を表す複数形態の総称である。
『叛逆の物語』では映画世界そのものを包む結界の主で、処刑されたい自己評価と、仲間から救われる価値の衝突が物語を動かす。
クララドールズ、ロッテ、断頭台は装飾ではなく、ほむらが自分へ下した判決を役割ごとに演じる。最後の「アイ」が未到着であることが、結末直前の余白を残す。
自己完結という性質
自己完結は、外からの赦しや評価を受け取らず、自分で罪と罰の筋書きを閉じる性質である。ホムリリィは処刑される側でありながら、処刑を命じる側でもある。

この閉じた構造では、仲間が救う価値を伝えても本人の判決へ届かない。だからこそ『叛逆の物語』の救出は、結界を壊す物理的な戦いと、自己評価を他者の関係へ開く戦いを兼ねる。
『エクセドラ』の説明が無償の愛に可能性を残すのも、自己完結の外から条件を持ち込むためである。愛が全てを自動解決するのでなく、心が失われ切っていない余地を示す。
映画全体を読み直す中心
ホムリリィの正体が分かると、冒頭からの見滝原、ナイトメアとの戦い、五人の共同生活は、ほむらが望んだ関係を結界が再構成したものとして読み直せる。
結界の主が意図的に全場面を演出したわけではない。ほむら自身も記憶を制限され、作られた役割を生きる一人になっている。
そのため、幸福な序盤を単なる嘘として切り捨てるより、失ったものが一時的にそろったからこそ、真相発覚後の自己処罰が強まったと考える方が物語の因果を捉えやすい。
